伝記
フィリップ2世は、ヴァロワ家の初代ブルゴーニュ公(在位1363年〜1404年)で、ヴァロワ=ブルゴーニュ家の祖である。「豪胆公」と呼ばれた。1342年1月17日、フランス王ジャン2世(善良王)と、ボヘミア王ヨハンの王女ボンヌの四男として生まれた。兄にシャルル5世、アンジュー公ルイ1世、ベリー公ジャン1世がいる。父王からトゥレーヌを封土として与えられたが、1363年9月6日、これと交換して、カペー家の後継者が絶えたブルゴーニュ公領を与えられた。公表されたのは、父の崩御後に兄シャルル5世が発した1364年6月の勅書によってで、同年11月26日にはディジョンに入城した。1369年6月19日には、ヘントでフランドル伯ルイ2世の娘マルグリット・ド・ダンピエールと盛大な婚礼を挙げ、これによってブルゴーニュ伯領やフランドル伯領などが、将来的にフィリップに継承されることとなった。同じ1369年にシャルル5世がブレティニー条約の破棄を通告し、百年戦争は第2段階に入った。以後約20年、フィリップは兄たちとともに王族の義務として従軍し。
1380年9月にシャルル5世が亡くなると、幼い甥シャルル6世のもとで王の叔父たちの対立が深まったが、11月30日に協同統治の盟約が結ばれた。1388年まで、フィリップは兄たちとともに摂政を務め、勢力を広げた。1382年には、舅のルイ2世がヘントなどの都市反乱で劣勢になると、シャルル6世の支援を得て加勢し、11月27日のローゼベーケの戦いで反乱の指導者を討ち取った。1384年1月30日にルイ2世が亡くなると、妻とともにフランドルを相続した。各都市はすぐには従わなかったが、フィリップは和解を求め、公的な書状にフラマン語を認めさせるなど柔軟に対応し、1385年12月にヘント市との和解が成立した。この間の1385年4月12日には、長男ジャンと長女マルグリットを、エノー伯などを兼ねるバイエルン公アルブレヒト1世の娘マルグリットと息子ヴィルヘルムに嫁がせる二重結婚を行い、7月17日にはシャルル6世とイザボー・ド・バヴィエールを結婚させて、王家にも食い込んだ。
1388年11月、20歳のシャルル6世が親政を宣言すると、叔父たちは権力から遠ざけられた。ところが1392年9月、シャルル6世に精神異常の兆候があらわれ、1400年ごろまでに統治が不可能な状態となった。摂政権をめぐり、王の弟オルレアン公ルイと対立した。1396年9月には、長男ジャンも参加したニコポリス十字軍が大敗し、捕虜となったジャンの釈放に20万フロリンを要したが、フィリップはさほど落胆せず、新たな騎士団を創設した。1400年には、イングランド王ヘンリー4世とシャルル6世の休戦協定に尽力している。1402年には両者がパリ周辺に軍勢を集めて衝突寸前となったが、王妃イザボーらの説得で和睦した。
フィリップは、妻の伯母にあたるブラバント女公ジャンヌに子がないため、次男アントワーヌを後継者にする取り決めをし、アントワーヌを伴ってブリュッセルへ赴いた。滞在中に体調を崩し、近郊へ移って、1404年4月27日に亡くなった。生涯、金銭に悩むことが多く、急死のあと、遺された妻子は葬儀費用の工面に奔走した。ブルゴーニュ公位は長男ジャンが、ブラバント公位は1406年のジャンヌの死後にアントワーヌが継いだ。権勢を広げる一方で芸術にも関心が深く、リンブルク兄弟らを招いて書庫を拡充し、タペストリーを集めた。ディジョンにシャンモル修道院を建て、家族の墓所とし、自身もここに葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- アルブレヒト1世 (バイエルン公) (1404年没)
- アルブレヒト4世 (オーストリア公) (1404年没)
- マリー・ド・フランス (1344-1404) (1404年没)
- Gerhard VI of Holstein-Rendsburg (1404年)
- ピエール2世 (アランソン伯) (1404年没)
同じ地域に関係する人物
- ゲンマ・フリシウス (1555年没)
- アレクサンドル (2009年没)
- レイモン・アンパニ (2010年没)
- マリア・フォン・ホーエンシュタウフェン (1235年没)
- マーガレット・オブ・イングランド (1275-1333) (1333年没)