伝記
キャサリン・スウィンフォードは、中世イングランドの貴族女性で、ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの愛人であり、のちにその3番目の妻となった。旧姓はキャサリン・ド・ルートといい、1350年11月25日に生まれ、1403年5月10日に没した。2人の間に生まれた子どもたちは、名門ボーフォート家を興した。ランカスター朝の始祖ヘンリー4世は、ゴーントと最初の妻ブランシュの息子であり、キャサリンにとっては継子にあたる。
父はエノーの騎士ペイン・ド・ルートで、エドワード3世の妃フィリッパ・オブ・エノーに従ってイングランドに来た人物だった。キャサリンはイングランドの宮廷で育った。16歳のとき、1366年ごろに、ヒュー・スウィンフォードと結婚した。ヒューはケトルソープに邸宅をもつ裕福な騎士で、ゴーントに仕えていた。2人の間には、少なくともトマスとブランシュの2人の子が生まれた。やがてキャサリンは、ゴーントの最初の妻ブランシュに仕えることになり、1369年にこの公妃が亡くなると、ゴーントの娘たちの家庭教師として世話をした。夫ヒューはその後、大陸で戦死した。
夫の死後、キャサリンはゴーントの新しい妻コンスタンス・オブ・カスティルの家に入り、リンカンシャーのコールビーとケトルソープにある亡き夫の領地の管理を任された。やがてゴーントの愛人となり、少なくとも4人の子が生まれた。子どもたちは、父の所有するフランスの領地の名にちなんで、ボーフォートの姓を受けた。ゴーントは、キャサリンにいくつかの領地を与え、手厚い手当も支給した。しかし2人の関係は世間の非難を招き、1381年、公は関係を断たざるをえなくなった。キャサリンはリンカンの借家に移り住んだ。それでも、元の恋人やその家族との関係は友好的に続いた。1387年には、国王リチャード2世からガーターの婦人に任じられ、そのすぐ後、ゴーントの長男ヘンリー・ボリングブルックの妻メアリー・ド・ボーハンの家に仕えた。1390年代の初めに、ゴーントとの関係が再びはじまった。
1394年にコンスタンスが亡くなると、1396年1月13日、ゴーントとキャサリンはリンカン大聖堂で結婚した。これは思いがけない結婚で、イングランドの貴族たちの不満を招いた。だが同じ年に教皇の勅書が届き、結婚が有効と認められ、2人の間に生まれた子もすべて嫡出と認められた。1397年1月には、議会の承認も得た。4人は結婚前に生まれた庶子であったため、これで晴れて「ジョン・オブ・ゴーントの嫡出子」となった。ゴーントが1399年に亡くなるまでの3年間を夫婦として過ごした。夫の死後、キャサリンはリンカンの借家に戻り、4年後の1403年5月10日に亡くなった。リンカン大聖堂に埋葬されたが、その墓所は、のち1644年、内戦のさいに清教徒の略奪を受けた。
ボーフォート家は薔薇戦争で大きな役割を果たした。キャサリンの娘ジョウン・ボーフォートの孫は、のちにヨーク朝を開くエドワード4世と、その後を継ぐリチャード3世である。一方、1485年にイングランド王となったヘンリー7世は、ゴーントとキャサリンの曾孫にあたる母マーガレット・ボーフォートを通じて王位を主張した。ヘンリー7世は、リチャード3世を倒したボズワースの戦いの前日にさかのぼって、「征服の権利による」王と自ら宣言した。息子ジョン・ボーフォートと娘ジョウンを通じて、キャサリンはエドワード4世以降のイングランド(のちグレートブリテン)の歴代の君主すべての祖先となった。
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