HISTORICAL PERSON · 1957年没

ヘンリー・ノリス・ラッセル

アメリカの天文学者。1910年にヘルツシュプルングと独立にHR図を提案し、プリンストン大学天文台長を務めた。共著の教科書は長く標準とされた。

生涯
1957年没
死亡地
アメリカ合衆国(ニュージャージー州 / プリンストン)
出生地
アメリカ合衆国(オイスター・ベイ)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ニュージャージー州)

伝記

ヘンリー・ノリス・ラッセルは、1877年10月25日、ニューヨーク州のオイスターベイに生まれたアメリカ合衆国の天文学者である。学問に縁の深い家に育ち、母方の祖母は1840年にラトガース大学を卒業する際に数学の賞を受け、母もエディンバラ大学で女子の首席だったという。両親は彼がまだ五歳だった1882年に金星の太陽面通過を観測させた。幼い頃は主に家庭で教育を受け、その後プリンストンの予備校を経てプリンストン大学で学び、優れた成績を収めて博士号を得た。1899年には大学卒業後の最初の天文学の論文を学術誌に発表している。

1903年から1905年までケンブリッジの天文台でアーサー・ロバート・ヒンクスのもとで働き、この時期は恒星の三角視差の測定を試みたが、成果はあまり得られなかった。1905年にプリンストン大学へ戻って天文学の教授となり、のちに同大学の天文台の所長を務めて、1947年に引退して名誉所長となった。1927年から1947年までは、同窓生たちが1897年に設けた研究教授職の座も務めた。1920年代にはウィルソン山天文台の客員研究者にもなり、当時世界で最も優れた観測施設で研究にかかわった。

1910年、アイナー・ヘルツシュプルングとは独立に、恒星のスペクトル型と絶対等級との間に相関があることに気づき、力学的視差を推定しながらヘルツシュプルング・ラッセル図、いわゆるHR図を提案した。さらに恒星系の分類表を加え、これらの成果は1940年の著作にまとめられた。1921年からは量子論の天体物理学への応用や、希土類金属における電子の配置にも関心を向けた。分光学の角運動量の結合を表すラッセル=ソーンダース結合や、天体物理学のフォークト=ラッセルの定理にも名を残している。地殻の年代の測定法にも疑問を呈し、その年齢を二十億年から八十億年のあいだと見積もった。また、星座を表す三文字の略号の体系を作り、1922年にローマで開かれた国際天文学連合の最初の総会で採用された。ラッセルはこの体系を考案した功績をヘルツシュプルングにも帰したが、本人は自分の功績であることを否定したという。

1927年には、レイモンド・スミス・ドゥーガン、ジョン・クインシー・スチュワートとの共著で『天文学』を著した。ヤングの天文学教科書を改訂したもので、版を重ねて、長年にわたり天文学の標準的な教科書となった。ほかに天文学の普及、惑星の起源、宗教と科学の橋渡しといった主題でも論じた。アメリカの天文学者たちの長老格として知られた。

王立天文学会のゴールドメダル(1921年)、ヘンリー・ドレーパー・メダルとラランド賞(1922年)、ブルース・メダルとランフォード賞(1925年)、フランクリン・メダル(1934年)などを受け、1937年には王立協会の外国人会員に選ばれた。ルーシー・メイ・コールと結婚して四人の子をもうけた。1957年2月18日、ニュージャージー州プリンストンで亡くなった。アメリカ天文学会には、彼の名を冠したヘンリー・ノリス・ラッセル講師職が1946年に設けられ、月のクレーターや小惑星にも名が残る。

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