HISTORICAL PERSON · 1957年没

ジョセフ・マッカーシー

アメリカのウィスコンシン州選出上院議員。共産党員やその疑いのある者を激しく非難した「マッカーシズム」で知られる。

生涯
1957年没
死亡地
アメリカ合衆国(メリーランド州 / ベセスダ)
出生地
アメリカ合衆国(グランド・シュート)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(メリーランド州)

伝記

ジョセフ・レイモンド・マッカーシーは、1908年11月14日にウィスコンシン州で生まれたアメリカ合衆国の政治家である。愛称は「ジョー」で、父方の祖父と母がアイルランド出身という家庭に育ち、実家は農場を営んでいた。1930年から1935年までミルウォーキーで法律を学んで弁護士の資格を得て、シャワノの町の法律事務所で働いた。1936年に民主党員として治安判事の選挙に出たが当選せず、1939年に巡回裁判官に当選した。第二次世界大戦にアメリカが参戦すると、兵役を免除される立場にありながら海兵隊の大尉として従軍し、南太平洋の爆撃任務で照準手や後部銃座手を務めた。このことから「テールガンナー・ジョー」と呼ばれ、選挙運動でも好んでその名を使った。

1944年、まだ軍務にあったまま共和党に鞍替えして上院議員候補の指名を争う予備選挙に出たが、現職に惨敗した。1945年4月に除隊し、巡回裁判官に再選されたのち、1946年の上院選に向けて組織的な運動を始め、激しい争いの末に僅差で指名を得て、本選挙では民主党の対立候補に大差をつけて初当選した。最初の任期中は目立たず、議会での投票は保守的だったが、共和党の方針に完全に従うわけではなかった。ただ大衆とメディアの注意を引くのが巧みで、さまざまな団体で数多くの演説を行い、住宅法や砂糖の配給制への反対などを訴えた。

全国的に知られるようになったのは、1950年2月9日にウェストバージニア州ホイーリングの共和党女性クラブで行った演説の後である。このとき彼が文書を示し、「国務省で働いている著名な共産主義者のリストを持っている」と主張した点では、衆目が一致している。ただ演説の内容は正確に記録されておらず、人数については議論がある。ある報告では205人の実例とされたが、本人は57人の既知の共産党員に言及したのだと述べた。数日後のソルトレイクシティでは57人、2月20日の上院では81人と、数字は変わっていった。上院は調査のため委員会を招集し、告発は事実無根と分かったが、有力な議員となった彼には力が及ばなかった。この演説は、ヨーロッパでのソビエト連邦の脅威や、アルジャー・ヒスの裁判が進む時期と重なり、国民に衝撃を与えた。

1950年から1953年にかけて、政府が内部の共産主義者に対処していないと非難し続け、一夜にしてスターに躍り出て、有力な支持者と収入を得た。1952年の共和党の選挙勝利には彼の攻撃が助けになり、党の指導者は彼を委員会の委員長に任命した。しかし党のアイゼンハワー大統領には完全には信用されず、与党にいながら政府内の共産主義者の影響を非難したことが大統領の怒りを買った。1953年の秋、委員会は陸軍の調査を始めたが、通信部隊のスパイ団を暴こうとして失敗した。召喚した歯科医官ペレスは20回にわたり黙秘権を行使し、彼が解雇されず昇進したことを、マッカーシーは問題にした。さらにツウィカー大将への扱いでメディアを敵に回した。1954年初め、陸軍は彼と助手のロイ・コーンが、友人の兵士に便宜を図るよう圧力をかけたと告発した。1954年4月から上院で陸軍・マッカーシー問題の特別委員会が開かれ、テレビで中継されると支持率は急落し、共和党の政治家にも見限る者が現れた。ほぼ同時に、ジャーナリストのエドワード・R・マローも、テレビの特集番組でその手法を取り上げた。1957年5月2日、任期中に没した。

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