伝記
ホルティ・ミクローシュは、1868年6月18日に現在のヤース・ナジクン・ソルノク県にあたる地で在郷貴族の家に生まれたハンガリーの海軍軍人・政治家である。国王が不在のハンガリー王国で、1920年3月1日から1944年10月17日まで元首にあたる摂政を務めた。「ヴィテーズ・ナジバーニャイ」は1920年に創設された勲位の称号で、本来は名前の一部ではない。1886年、当時ハンガリー唯一の海港都市だったフィウメの海軍兵学校で教育を受けてオーストリア=ハンガリー帝国海軍に入り、教育艦の艦長や水雷士官、一等士官などを務めた。1908年にコンスタンティノープルの海軍泊地長となり、翌1909年には艦隊勤務を離れて皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の侍従武官を拝命した。以後も終生この皇帝を敬愛し、たびたび賛辞を口にした。
1914年に第一次世界大戦が始まると、戦艦「ハプスブルク」の艦長に就いたが、4か月後には巡洋艦「ナヴァラ」の艦長へ異動した。帝国海軍は海軍力の温存を図ってアドリア海の港に艦船を分散させ、連合国艦隊との直接対決を避けたため、新聞からは非難されたが、実力に照らせば妥当な判断だったともいわれる。1917年5月、連合国によるオトラント海峡の封鎖を破るため、ホルティが攻撃の指揮を命じられた。わずか3隻の軽巡洋艦を主力とし、駆逐艦2隻の別動隊を加え、約100隻の特殊掃海艇が守る堰を攻撃して、イタリアの駆逐艦と貨物船を沈め、掃海艇14隻を撃沈した。駆けつけたイタリアの艦隊にも大勝し、旗艦が大破しながら封鎖を破ったとされる。この武勲で少将に昇進し、ハンガリー国内は沸いた。1918年に帝国海軍総司令官となり、10月30日に中将に昇進したが、11月3日の休戦で艦隊は活動を停止した。このときコトルで起きた暴動を、陸戦隊を指揮して鎮圧している。
敗戦で帝国が解体し、ハンガリーは大きく領土を失った。1919年3月にクン・ベーラが共産主義政権を樹立し、ルーマニアが侵攻すると、フィウメで艦隊を解散して避難民の保護にあたっていたホルティは、ハンガリーの防衛を決意した。同年6月、ハンガリー西部のバルチュで国民軍の創立を宣言すると、各地の義勇兵が集まって勢力を拡大した。8月にルーマニア軍がブダペストを占領してクン政権が崩壊したが、ホルティは領土の割譲を拒み、交渉の末に撤兵の確約を得て、11月14日、国民軍とともにブダペストへ無血入城した。その名声は高まり、国民の多くから救国の指導者として支持されたが、赤色テロの反動で、共産主義者に対する白色テロが横行した時期でもあった。
1920年2月に王政復古を問う国民投票が行われ、立憲君主制への移行が決まったが、ハプスブルク家の国王推戴は協商国に否定され、国民議会は3月1日、定数138票のうち131票の賛成でホルティを摂政に選んだ。これはカール1世を復位させないという協商国向けの条件を表向きの理由としつつ、帝国再興を望む皇帝派と、失地回復をめざす民族主義者との妥協の産物でもあった。ホルティ体制では官僚と軍人を支持基盤に、権威主義的な政治が行われ、外交ではドイツやイタリアに接近して失地回復を図った。第二次世界大戦末期の1944年10月、敗色の濃いドイツからの離脱を試みて失敗し、摂政を退いた。1946年にポルトガルへ亡命し、1957年2月9日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- 橋本欣五郎 (1957年没)
- ヴィルヘルム・フィルヒナー (1957年没)
- チャールズ・ブレイビン (1957年没)
- ジョージ・モラン (1957年没)
- アルフォンソ・デ・ポルターゴ (1957年没)
同じ地域に関係する人物
- ドゥアルテ・ローボ (1646年没)
- コスタ・ゴメス (2001年没)
- ヴィトール・ダマス (2003年没)
- ゲラ・ジュンケイロ (1923年没)
- ドゥアルテ (ギマランイス公) (1540年没)