伝記
ヴァルター・ボーテは、1891年1月8日にベルリンに近いオラニエンブルクで生まれたドイツの実験物理学者である。1908年から1912年までベルリン大学でマックス・プランクのもとで物理学を学び、1914年に学位を得た。1913年には物理工学院に入り、1930年まで在籍した。同院に新設された放射能研究所では、ハンス・ガイガーが1912年に所長に任命されており、ボーテは1913年から1920年までその助手、1920年から1927年まで所員を務めた。1914年5月に騎兵として志願して従軍したが、ロシア軍の捕虜となり、5年間ロシアに抑留された。その間にロシア語を身につけ、博士論文に関連する理論物理学の問題にも取り組み、1920年にロシア人の花嫁とともにドイツへ戻った。
帰国後は物理工学院でふたたびガイガーのもとで働き、複数のガイガー計数管を使って粒子を同時に測定し、信号の差から入射角度を決める方法を開発した。1924年にはこの同時計数法を論文にまとめ、ガイガーとともにコンプトン効果や光の波と粒子の二重性を調べる実験を行った。この方法は、散乱現象を調べる近代的な手段の先駆けとなった。1925年にはベルリン大学の私講師となり、1927年にはガイガーの後任として放射能研究所の所長に就いた。同じ年にアルファ線の衝突による軽元素の核変換の研究を始め、1929年には客員のウェルナー・コルヘルスターやブルーノ・ロッシとともに宇宙線の研究に着手し、これは生涯にわたって続けられた。宇宙線にガンマ線だけでなく高エネルギーの粒子が含まれることも示している。
1930年にギーセン大学の正教授で物理学部の主任となり、同じ年、共同研究者のヘルベルト・ベッカーとともに、ポロニウムのアルファ線をベリリウムやホウ素、リチウムに当てて、透過力の強い新しい放射線を見出した。これが中性子であることは、1932年にジェームズ・チャドウィックによって確認された。1932年にはフィリップ・レーナルトの後任として、ハイデルベルク大学の物理・放射線研究所の所長に就任した。1933年にヒトラーが首相となると、反ユダヤ的で理論物理学に反対する「ドイツ物理学」が勢いを増し、レーナルトらの影響で、1934年にボーテはこの所長の職を解かれた。国外への亡命を防ぐため、カイザー・ヴィルヘルム医学研究所の物理学研究所長に任じられ、1943年にはドイツ初のサイクロトロンを完成させた。
1939年に始まったドイツの核エネルギー計画にも主要な立場で関わった。1941年にはペーター・イェンゼンとともにグラファイトの中性子減速効果の研究結果を報告したが、この結果が誤っていたため、ドイツの核開発は減速材に重水を用いることになり、遅れの原因になったとされる。戦後の1946年にはハイデルベルク大学の教授に復帰し、1953年にマックス・プランク・メダルを、1954年にはマックス・ボルンとともに、同時計数法とそれによる発見によりノーベル物理学賞を受けた。1956年から1957年にはドイツの原子核物理学作業部会の委員を務め、1957年2月8日に亡くなった。その翌年、彼の物理学研究所は新たなマックス・プランク核物理学研究所となり、その主要な建物はボーテ研究棟と名付けられた。
同じ年に亡くなった人物
- ジョルジュ・エベル (1957年没)
- チャールズ・ケイ・オグデン (1957年没)
- フリーダ・フロム=ライヒマン (1957年没)
- 川瀬巴水 (1957年没)
- ヨゼフ・ラダ (1957年没)
同じ地域に関係する人物
- カール・クリング (2003年没)
- ハンス・フォン・ザルムート (1962年没)
- グスタフ・イェーガー (1917年没)
- フリードリッヒ・ゲオルク・ユンガー (1977年没)
- ルイ=ルネ=エドゥアール・ド・ロアン=ゲメネー (1803年没)