HISTORICAL PERSON · 1957年没

コンスタンティン・ブランクーシ

ルーマニア出身の彫刻家。ロダンの工房をわずか2か月で去り、独自の抽象化を進めて20世紀の抽象彫刻に決定的な影響を与え、ミニマル・アートの先駆的作品も残した。

生涯
1957年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
ルーマニア(Hobita)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

コンスタンティン・ブランクーシは、1876年2月19日、ルーマニア南西部オルテニア地方のゴルジュ県ホビツァに生まれた彫刻家である。父ニコラエ・ラドゥと母マリアの一家は、農業と牧畜、代々伝わる木工で暮らしていた。11歳で家を出てタルグ・ジウに行き、染物師のもとで植物染料の作り方や羊毛の染め方を覚え、のちに酒場でも働いた。1889年にクラヨヴァへ移り、倉庫や食料品店で働いたが、木工の腕前が人目を引き、18歳のときには職場にあった材料でヴァイオリンを作った。1894年にクラヨヴァの美術工芸学校へ入り、素描や彫塑、木彫、指物を学んで1898年に課程を終えた。同年ブカレストの国立美術学校に進み、解剖学を医師ディミトリエ・ゲロタに学んで、皮を剥いだ人体を示す『エコルシェ』を完成させた。1902年に卒業し、1903年には軍医で将軍のカロル・ダヴィラの記念像を依頼され、胸像を作った。

1903年、ブカレストを発って西ヨーロッパへ向かい、道のりの大半を歩き、働きながらウィーン、ミュンヘン、バーゼルを経て、1904年7月14日にパリへ着いた。最初の数か月は皿洗いとして働き、1905年6月にパリ国立美術学校の入学試験に合格して、彫刻のクラスで学んだ。ルーマニア教育省から1905年から1908年まで奨学金を受けた。この頃はオーギュスト・ロダンの影響を受けていた。1907年にロダンの工房で助手として働いたが、「大樹の陰では何も育たない」という言葉を残し、ごく短期間で去った。その後、ペトレ・ステネスクの墓碑の制作で、抽象化への転機となる『祈る人』を作った。1908年にはモンパルナス通りにアトリエを借り、1916年までそこで暮らした。この頃から粘土や石膏による塑像を離れ、石や木を直接彫るようになり、写実的方法を離れた、極めて単純で純粋なフォルムの抽象的作品に至った。1913年には、最新のヨーロッパ美術を紹介するアメリカの「アーモリー・ショー」に出品している。

作品は要素を極端に切り詰め、彫刻を置く台座も作品として一緒に制作した。代表作の『新生児』や『空間の鳥』では、幼児の頭部や飛ぼうとする鳥が単純な卵形やプロペラ型にまで至るが、対象の本質を捉えて単純な形に写すもので、形態から完全に離れてしまうわけではない。1926年に『空間の鳥』をアメリカへ輸出した際、税関で美術品と認められず、工業製品とみなされて高い関税を課され、購入者と税関が裁判で争って購入者が勝訴した。1924年に制作を始めた『無限柱』は、単純な単位の反復で構成され、どこで切断しても無限の柱としての性質を失わないものと、友人のマン・レイに語ったという。この柱はカール・アンドレらのミニマル・アートに強い影響を与えた。

朴訥な人柄で慕われ、マルセル・デュシャンやマン・レイとも親交があり、イサム・ノグチはパリで助手となって抽象彫刻家としての方向性を見出した。「神のように創造し、王のように指揮を執り、奴隷のように働け」という言葉を残している。1957年3月16日、パリで亡くなった。1991年から1994年に発行されたルーマニアの500レイ紙幣には、肖像が使われていた。

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