伝記
フリードリヒ・パウルスは、1890年9月23日、ドイツのヘッセンのブライテナウで、下級役人の家に生まれた。当初は海軍将校を志したが断られ、1909年にマールブルク大学で法学を学び始めた。しかし1910年2月に軍に志願し、士官候補生としてラシュタットの歩兵連隊に配属され、翌年に少尉に任官した。1912年には、士官学校の同期生の妹で、古い家柄のルーマニア貴族の娘と結婚し、三児をもうけた。ドイツの将軍には貴族出身者が多く「フォン」を名乗る者が多かったが、彼の家は貴族ではなかった。第一次世界大戦では西部戦線、イタリア戦線、バルカン半島、ヴェルダン、ルーマニアなどを転戦し、赤痢で入院もした。1918年の終戦時は大尉で、このときの病気のために生涯病弱気味だったという。戦後は義勇軍に属し、ポーランドとの国境紛争では人事を担当した。その後ヴァイマル共和国軍に採用され、1924年に中隊長となって初めて部隊を指揮した。同じ頃の同僚の中隊長にロンメルがいた。
1931年までは師団の戦術教官を務め、その能力が注目されて、ベルリンの陸軍大学の戦術教官に移った。この時期にナチスの政権獲得を経験したが、本人の姿勢はよく分かっていない。貴族出身の妻はナチスを嫌っていた。1935年に大佐となり、自動車化部隊の参謀長を務め、1939年には少将に昇進した。同年9月に第10軍の参謀長としてポーランド侵攻やフランス侵攻に加わり、ライヒェナウの右腕として働いた。1940年9月には陸軍参謀本部第一部長となり、バルバロッサ作戦の立案に加わった。
1942年1月、親交のあったライヒェナウが急死し、その推薦で第6軍の司令官に任命された。軍歴が一貫して参謀畑で、連隊長も師団長も経験がなかったため、任命には異論もあった。同年夏、第6軍はスターリングラードを包囲し、ヒトラーはこの都市の完全な占領を命じた。11月19日にソ連軍がウラヌス作戦で反撃に出た時点で、ドイツ軍は市街地の約90%を占領していたが、23日にはソ連軍がカラチで合流し、第6軍など約33万人が包囲された。パウルスは直ちに脱出の自由を求めたが、すぐには誰も回答しなかった。12月に始まったマンシュタインによる救出の「冬の嵐」作戦でも、パウルスは脱出実施に非現実的な留保条件をつけ、ヒトラーがこれを追認する形で拒んだため、第6軍は脱出に動かなかった。1943年1月30日、ヒトラーはパウルスを元帥に昇進させた。ドイツ軍の元帥で降伏した者はおらず、これは捕虜になるより自決せよという意味であった。だがクリスチャンだった彼は自決を拒み、翌31日、南部ポケットの将兵とともにソ連軍に降伏した。
捕虜となったのち、ヴィルヘルム・ピークの説得を受けてナチスの批判者となり、自由ドイツ国民委員会などに名を連ね、ニュルンベルク裁判では検察側の証人として出廷した。ドイツにいた妻子は逮捕され、妻は1949年に亡くなった。1953年、東ドイツのウルブリヒトと会見したのち抑留を解かれ、東ドイツに移住した。子供たちは西ドイツにいて会うことはなく、本人はドレスデンに邸宅を与えられ、人民警察の戦史研究室で参与の職に就いた。東西ドイツの再軍備に反対する運動にも加わった。晩年はALSを患い、1957年2月1日に没した。歴史的評価は今も分かれている。
同じ年に亡くなった人物
- ジョン・フォン・ノイマン (1957年没)
- ルドルフ・ディールス (1957年没)
- オリヴァー・ハーディ (1957年没)
- ハリル・クート (1957年没)
- ウンベルト・サバ (1957年没)
同じ地域に関係する人物
- フェルディナント・ライヒ (1882年没)
- アマーリエ・アウグステ・フォン・バイエルン (1877年没)
- ゲオルク (ザクセン王) (1904年没)
- ブレーメンのアダム (1080年代没)
- ヴィルヘルム・ロッシャー (1894年没)