伝記
リスト・リュティは、1889年2月3日にフィンランドのサタクンタ県ラウマで生まれた政治家、弁護士、銀行家である。農場を営む家の7人の子供のうちの1人で、子供の頃から本の虫だった。1906年にヘルシンキ大学に入って法律を学び、1909年に卒業すると、首都の政治的抑圧の雰囲気から逃れて地元のラウマで弁護士になった。やがて、フィンランドで最も裕福な人物の一人である実業家アルフレッド・コルデリンの弁護士となり、二人は親しい友人になった。1914年にオックスフォード大学で海上法を学ぼうとしたが、第一次世界大戦の勃発で帰国を余儀なくされた。1916年にゲルダ・パウラ・セルラチウスと結婚して、3人の子供を授かった。1917年11月には、コルデリンがロシアのボルシェヴィキに殺害されるのを夫妻で目撃した。
フィンランド内戦の期間は、赤衛軍の支配下にあったヘルシンキに家族と隠れ住んだ。1919年に国民進歩党の国会議員に選ばれ、30歳で二番目に若い議員となった。1921年には32歳で財務大臣に任命され、1923年にはストールベリ大統領からフィンランド銀行の総裁に任命された。1924年に財相を辞したのちも、1939年に首相になるまで総裁を務めた。古典的自由主義経済学の支持者で、通貨の価値を金本位制で保証することを目標とし、1926年に通貨は金マルッカに移行した。1929年の大恐慌後は、イギリスに倣って金本位制を放棄せざるを得なかった。英語に堪能で、イングランド銀行の指導者とも良好な関係を築き、1934年にはロイヤル・ヴィクトリア勲章を授与された。社会主義経済にも、ナチス・ドイツの国家社会主義にも、右翼の過激主義にも反対した。1925年の大統領選挙には候補者として立ち、第二次投票では最多の支持を得たが、第三次投票で敗れた。
1939年11月30日にソ連軍が侵攻して冬戦争が始まると、社会民主党党首タンネルの要求でカヤンデル政権が総辞職し、フィンランド銀行総裁だったリュティが首相就任を要請されて、受け入れた。翌1940年3月12日にモスクワで和平協定に調印し冬戦争は終わったが、条約は第2の大都市ヴィープリの割譲など、フィンランドにきわめて不利な内容だった。1940年12月19日にカッリオ大統領が病死すると、同日に議会の承認を得て後任の大統領に就任した。1941年6月22日に独ソ戦が始まった後、ソ連の報復空爆を受けて6月25日に宣戦布告し、継続戦争が始まった。1944年6月にソ連軍の攻勢でフィンランド軍が苦戦すると、ドイツは緊急支援の条件として公式の表明を求めた。議会の承認は見込めなかったため、リュティはマンネルヘイムらと協議のうえ、「大統領個人の声明」という形でヒトラーに戦争の継続を約束した。支援を受けて戦線が安定した8月に辞職し、後継のマンネルヘイムが和平交渉を再開して、9月にソ連と講和した。
戦後、リュティは戦争犯罪人として逮捕され、1946年に閣僚ら7人とともに訴追され、そのなかで最も重い禁錮10年の判決を受けた。健康を害して1949年に釈放され、以後は隠遁生活を送って、1956年10月25日に没した。ソ連の猛烈な反対にもかかわらず、国葬が行われた。汚名を負って国の独立存続を果たした功労者として、フィンランド人に尊敬されており、「フィンランドで最も偉大な人物」のランキングではマンネルヘイムに続く第2位に選ばれている。
同じ年に亡くなった人物
- ジャクソン・ポロック (1956年没)
- ミスタンゲット (1956年没)
- ユホ・クスティ・パーシキヴィ (1956年没)
- マリア・ヘンリエッタ・フォン・エスターライヒ (1956年没)
- エルンスト・ローベルト・クルツィウス (1956年没)
同じ地域に関係する人物
- ヘイッキ・リーマタイネン (1980年没)
- ヨハン・カジミル・エルンロット (1913年没)
- アンティ・アールネ (1925年没)
- Keijo Liinamaa (1980年没)
- ヨハンネス・リンナンコスキ (1913年没)