伝記
ボレスワフ・ビェルトは、1892年4月18日にルブリン近郊で生まれたポーランドの共産主義者、政治家である。当時の同地はロシア帝国領のポーランド王国で、現在はルブリン市の一部になっている。トルナブジェク周辺の農民であったヴォイチェフとマリアンナの夫妻の末子で、6人きょうだいの1人だった。1900年にルブリンの小学校へ通い始めたが、1905年にロシアに対する抗議運動をあおったとして退学させられた。14歳の頃から様々な職に就きながら独学で学び、のちには経済学に関心を持って、ワルシャワの経済学校で協同組合などの講座にも通ったとされる。
左派の知識人ヤン・ヘンペルの影響を受け、第一次世界大戦前の1912年にポーランド社会党に入党した。1915年からは協同組合運動に積極的に加わり、1916年にはルブリンの食料協同組合の商務責任者となって、1918年からはその中心的な指導者となり、協同組合の階級的で社会主義的な性格を掲げた。同じ1918年、ポーランド・リトアニア王国社会民主党との合同でポーランド共産党が結成されると、引き続きその党員となった。1921年7月にはルブリンの幼稚園教師ヤニナ・ゴジンスカと結婚し、非合法活動のため警察から身を隠さねばならなかったとき、彼女の助けを受けた。ポーランド共産党にもスターリンの大粛清の嵐が吹き荒れたが、ビェルトは粛清を免れた。ソ連で数年を過ごしてコミンテルンの工作員として働き、レーニン国際学校などで教育を受けたとされる。1935年には、ポーランドでの非合法な労働運動を理由に反共の政府から禁固刑を言い渡され、1938年に釈放されるとスポウェムの会計係として働いた。
第二次世界大戦が始まると、1942年に創設されたポーランド労働者党に加わって、その活動家となった。この党が設立した国民評議会の議長を1944年から1947年まで務め、赤軍がドイツ軍を東から押し返す中、解放されたルブリンを民族解放委員会の臨時の所在地とするのは、彼の発案であった。スターリンの信頼を得てポツダム会談にも出席し、ポーランドの西部国境をオーデル=ナイセ線とするよう働きかけて成功した。こうして会談は、ドイツから旧領を獲得するという形でポーランドに最大限の領土を与えた。
1947年の選挙は不正にまみれたものだったが、その後ビェルトは戦後ポーランドの初代大統領となった。ポーランド労働者党が社会党を併合してポーランド統一労働者党になると、1948年に初代書記長に就任し、「小スターリン」としてスターリン主義的な恐怖政治を敷いた。1952年の新憲法で大統領職が廃止されて公式にマルクス・レーニン主義の統治が定められると、1952年から1954年まで首相を務めた。その治下ではカトリック教会と反共産主義者が弾圧された。一方で、ワルシャワの再建を推し進め、文化科学宮殿の建設の最も有力な推進者でもあり、事実上の指導者としてベルヴェデル宮殿に住み、新世界通りの党本部から党を率いた。
1953年にスターリンが死ぬと、ソ連の新しい指導者ニキータ・フルシチョフのもとで、1956年にソ連共産党第20回大会が開かれ、ビェルトはこれに参加した。しかし3月12日にモスクワで客死した。スターリン批判に衝撃を受けたことによる心臓発作だったといわれる。死は突然のもので、死の事情を疑う説も多く現れた。遺体はポーランドに戻され、ポヴォンスキの軍人墓地に記念碑的な墓を築いて葬られた。
同じ年に亡くなった人物
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