伝記
オレクサンドル・ペトローヴィチ・ドヴジェンコは、1894年9月10日にロシア帝国チェルニゴフ県ソスニツィアのヴィウヌィシュチェ集落で生まれたウクライナ出身の映画監督である。農民ペトロとオダルカの7番目の子として生まれた。14人きょうだいだったが、兄姉が亡くなって、11歳までに家の長男として家計を支える立場になったという。両親は無学だったが、読み書きのできた祖父の勧めで教育を受け、1914年にフルーヒウの教員養成の学校を卒業した。19歳で教師となり、物理学などを教えた。
心臓疾患のために第一次世界大戦とロシア内戦の兵役を免除されたが、1919年にジトーミルでウクライナ人民共和国軍のスパイの容疑で逮捕され、収監された。介入によって釈放されると、赤軍の士官学校で歴史と地理を教えた。1920年にボロトビスト党に加わり、ウクライナ社会主義ソビエト共和国の外交官として、ワルシャワ、続いてベルリンに勤務した。政府の奨学金でミュンヘンとベルリンで絵画を学び、ハリコフに戻ってからは共産党の機関紙の挿絵画家として働き、ウクライナの文学団体にも加わった。
1926年、オデッサの映画撮影所で映画の製作を始めた。初の脚本『ヴァシャ・ザ・リフォーマー』は共同監督で、好評を得た。1928年の『ズヴェニゴーラ』で名声を確立し、革命を支持する兄と、反革命の山賊となる弟との対比を描いたこの作品で、ソ連映画の主要な監督と認められた。『武器庫』(1929年)は、キエフの兵器廠の蜂起を題材にした。ウクライナの共産党当局から「民族主義的」と批判されたが、スターリンが気に入り、嫌がらせは一時収まった。1930年の『大地』は農業集団化を肯定的に描き、史上最高の無声映画の一つとされる。冒頭で瀕死の老人がリンゴを味わう場面は、詩的な表現として評価された。しかし詩人デミヤン・ベードヌイが新聞で「敗北主義」と攻撃し、再編集を強いられた。この三作は「ウクライナ三部作」と呼ばれ、ウクライナの風土と文化的アイデンティティを詩的に描いた。
1932年の『イワン』は、ドニエプル水力発電所の建設を描いたが、「ファシズムと汎神論」を助長するとして非難された。逮捕を恐れたドヴジェンコはスターリンに直接訴え、翌日クレムリンで『航空都市』の脚本を朗読した。承認を得たものの、スターリンは次作としてウクライナの共産主義ゲリラ、ニコライ・シチョールスの伝記映画を「提案」した。1935年のソ連映画15周年の記念祭典でレーニン勲章を受けたが、『シチョールス』(1939年)の製作は困難を極めた。脚本は「粗野すぎる」と批判され、政治的な干渉が続き、大粛清のなかで撮影監督を含む同僚が逮捕され、ドヴジェンコ自身も「民族主義の陰謀」の容疑をかけられた。完成した作品は1941年にスターリン賞を受けた。
第二次世界大戦中に書いた脚本『ウクライナ・イン・フレイムス』は「民族主義的」とされ、フルシチョフらに非難された。中央委員会での批判後は公式の組織から排除されて孤立し、戦後は小説を書き、生物学者の伝記映画『ミチューリン』(1948年)を監督して、1949年にスターリン賞を受けた。スターリンの死後に迫害が緩むと、ゴーゴリの『タラス・ブルバ』の映画化と『海についての詩』を計画したが、1956年11月25日、ペレデルキノの別荘で心筋梗塞により死去した。『海についての詩』は妻ユリヤ・ソルンツェヴァが完成させ、1959年にレーニン賞を受けた。20年の経歴のなかで、彼が直接監督した映画は7本のみである。全ロシア映画大学ではパラジャーノフらを指導した。
同じ年に亡くなった人物
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- マリア・ヘンリエッタ・フォン・エスターライヒ (1956年没)
- ヨハン・ラドン (1956年没)
- ウィリアム・ボーイング (1956年没)
- マルセル・グリオール (1956年没)
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- ワシーリー・スリコフ (1916年没)
- レオニード・アバルキン (2011年没)