伝記
カール・ヨーゼフ・ヴィルトは、1879年9月6日、当時バーデン大公国のフライブルクに生まれたドイツの政治家である。中央党に属し、ヴァイマル共和政時代の1921年から翌年にかけて首相を務め、41歳での就任はドイツ史上最年少である。父は印刷所の機械工の親方で、母はアガーテ(旧姓ツェラー)といった。カトリックの両親のキリスト教的、社会的な関与が、本人によれば彼に強い影響を与えたという。1899年から1906年までフライブルク大学で経済学、自然科学、数学を学び、数学で博士課程を修了した。1906年から1913年までギムナジウムで教え、1909年には貧しい人々のための慈善団体を設立して初代会長となった。
1911年にフライブルク市議会のカトリック中央党の議員に選ばれ、1913年から1921年までバーデン州議会議員を務め、1914年には帝国議会議員にもなった。第一次世界大戦が始まると軍に志願したが、健康上の理由で不適格とされ、赤十字に入って、1914年から1917年まで看護士として西部戦線と東部戦線に従軍した。肺炎を患って休職し、1917年7月には帝国議会でエルツベルガーが提唱する「平和決議」に賛成票を投じた。1918年11月、バーデン共和国の財務大臣に就任し、1919年1月にはワイマールの憲法制定議会の議員に選ばれた。当時の彼は自らを「確固とした共和主義者」と語っていた。1920年3月のカップ一揆でバウアー内閣が退陣すると、エルツベルガーの後任として財務相に入閣し、さらに1921年5月、フェーレンバッハ内閣の後を受けて、中央党、社会民主党、民主党による少数与党政権を組閣した。
同年10月、国際連盟が発表した上部シレジアの分割決定に抗議して辞職したが、10月26日に大統領エーベルトの要請で第2次内閣を成立させた。賠償については、義務を愚直に履行して支払い能力を超えていることを示すという「履行政策」をとったが、ヴェルサイユ条約の見直しを求める右翼民族主義者の攻撃の的となった。一方、軍のゼークトの支持を得て、ソビエト連邦とラパッロ条約を結び、経済関係を樹立するとともに、ソ連からの賠償要求を相殺させた。この条約をまとめた外相ラーテナウが路上で暗殺されると、追悼演説で「敵は右側に居る」と述べ、この言葉は語り草になった。左右の過激派を取り締まる共和国防衛法も制定したが、賠償金の支払いなどをめぐって財務相と対立し、1922年11月に退陣した。のち1929年から1930年に占領地担当相、1930年から1931年にブリューニング内閣の内相を務めたが、左寄りすぎるとして大統領ヒンデンブルクの不興を買い、辞職に追い込まれた。
1933年3月、全権委任法に反対する演説をしながらも、他の議員とともに賛成票を投じ、同月ウィーンへ赴いてそのまま亡命した。スイスのチューリヒで暮らし、ナチス政府から強く批判されても沈黙を守り、反ナチ運動やイギリス政府とも連絡を取った。1949年にフライブルクに戻ると、西側との同盟を拒む中立主義の運動を組織し、アデナウアーの西側統合に反対した。1951年のモスクワ訪問は、ソ連に抑留されていたドイツ人捕虜の解放につながったとされる。東ドイツ政府から平和金メダル、ソ連からスターリン平和賞を受けた。1956年1月3日、心不全のためフライブルクで亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- ミスタンゲット (1956年没)
- ギュスターヴ・シャルパンティエ (1956年没)
- コンスタンティン・パッツ (1956年没)
- ヴェルナー・ハース (ライダー) (1956年没)
- チャンドラシェックハー・アガシェ (1956年没)
同じ地域に関係する人物
- フリードリヒ・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン (1965年没)
- ヴェラ・コンスタンチノヴナ (1912年没)
- アンドレアス・バーダー (1977年没)
- マリー・フォン・バーデン (1782-1808) (1808年没)
- トーニ・メルケンス (1944年没)