伝記
鄭道伝は、高麗末期から李氏朝鮮初期にかけての政治家であり、道学者である。至正2年(1342年)に生まれた。本貫は奉化で、字は宗之、号は三峰という。父の鄭云敬は、高麗の忠粛王の治世に任官して各地の地方官を務めた官僚である。故郷の丹山には、出生にまつわる伝説が伝わる。鄭云敬は占い師に、10年後に結婚をすれば生まれる子は宰相になると予言され、10年間金剛山で修養した。帰る途中、雨に降られて三峰の草庵に泊まり、そこで禹氏の少女に出会って妻に迎えた。そうして生まれたのが道伝だという。
鄭道伝は父の友人の李穡を師として学び、1360年に科挙に合格して、1363年に官吏となった。1375年、権臣の李仁任らの親元反明の政策に反対したために流刑に処された。この流刑生活のなかで、孟子の影響を受けたとされる。1377年に流刑が終わると、学問の研究と教育に携わり、1383年に李成桂の幕僚となった。東北面にいた李成桂を訪ねたときには、その軍勢を見て、さぞどんなことでも成し遂げられるでしょうと言った。驚いた李成桂がそのどんなこととは何かと聞くと、知らぬふりをして、東南の倭寇を討つことですと答えたという。1389年に昌王を廃して恭譲王を擁立し、功臣として封じられたが、1391年に再び流刑となった。翌1392年に釈放されたものの、同年4月に李成桂が狩りの最中に落馬して負傷すると、その療養中に、鄭夢周らから、家風が不浄で家系が不確かだと弾劾され、3度目の流刑に処された。李芳遠が鄭夢周を暗殺すると釈放され、同年7月17日、李成桂を王に推戴した。
李氏朝鮮が建国されると、すべての権限は鄭道伝に集中し、その権力は国王の太祖をしのぐとさえいわれた。開国一等功臣と認められ、ほとんどすべての要職を兼ねたり歴任したりした。漢城への遷都ののち、宮と宗廟の位置や称号、門の名を定め、『朝鮮経国典』を著して法制の基礎をつくり、『仏氏雑弁』で崇儒抑仏の理論を確立した。軍事では義興三軍府の司令官として軍制を改革し、高麗後期にほとんど私兵になっていた軍隊を整理して国に帰属させた。流刑の時代に民の荒れた暮らしを見てきた経験から、私田を廃止して土地を再分配しようとし、完全な国有化は実現しなかったが、科田法に大きな影響を与えた。『朝鮮経国典』には、民こそが国の根本であるという考えを記した。王朝の創業後の酒席では、劉邦が張良を利用して王朝を創業したのではなく、むしろ張良が劉邦を利用して創業したのだと語り、太祖と自分の関係を劉邦と張良になぞらえた。宰相を中心とした士大夫が政治をリードすべきだと主張したため、強力な王権こそ社会の安定をもたらすと考える李芳遠と対立した。太祖は、継妃の康氏とのあいだに生まれた、当時わずか11歳の末息子の李芳碩を王世子に指名し、功績のあった李芳遠を遠ざけた。鄭道伝は、明を刺激する遼東への出兵を計画したが、1398年8月26日、政敵の李芳遠の軍勢に殺された。
その後、鄭道伝は長いあいだ反逆者として扱われた。三人の息子のうち2人は父とともに殺されたが、嫡男の鄭津は一命をとりとめ、のちに官位と身分を回復して、父の著作を集めた『三峰集』をまとめた。1791年には、鄭道伝の学問を再評価した正祖の命で『三峰集』が再刊行された。1865年に興宣大院君が景福宮を再建する際に、漢陽の設計者で景福宮の建築を指揮した鄭道伝の勲爵が回復され、1870年に「文憲」の諡号を受けた。李芳遠の政策には鄭道伝の政策を実現したものも多かった。
同じ年に亡くなった人物
- 崇光天皇 (1398年没)
- 朱元璋 (1398年没)
- al-Mansur Muhammad (1398年没)
- Demetrios Kydones (1398年)
- ロジャー・モーティマー (第4代マーチ伯) (1398年没)
同じ地域に関係する人物
- 宋時烈 (1689年没)