HISTORICAL PERSON · 1955年没

チャーリー・パーカー

アメリカのジャズのアルト・サクソフォーン奏者。ガレスピーとともにビバップの創成に携わり、「モダン・ジャズの父」とも言われる。愛称はバード。

生涯
1955年没
死亡地
アメリカ合衆国(ニューヨーク州 / ニューヨーク)
出生地
アメリカ合衆国(カンザス・シティ)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ニューヨーク州)

伝記

チャーリー・パーカー、本名チャールズ・パーカー・ジュニアは、1920年8月29日にカンザスシティで生まれ、ミズーリ州のカンザスシティで育ったアメリカ合衆国のジャズ奏者である。アルト・サクソフォーン奏者であり、作曲家、編曲家でもあった。父は黒人の劇場興行組織で働くピアニスト、ダンサー、歌手だったが、のちに鉄道会社のウェイターやコックなど職を転々とし、チャーリーが二十歳になる前に亡くなっている。母アデレードは地元のウェスタン・ユニオンに夜勤めていた。両親は1930年に父の飲酒と大恐慌の影響で別れ、母は住まいの費用を稼ぐため掃除婦としても働いたという。

十一歳でサクソフォーンを始め、十四歳でリンカーン高校のバンドに入って、団長のアロンゾ・ルイスに学んだ。母は同じ頃に新しいアルト・サクソフォーンを買い与えた。十代前半の最大の影響は、トロンボーン奏者の少年ロバート・シンプソンで、即興の基本を教わった。1935年12月に高校をやめて音楽家の組合に入り、音楽で生きていくことを決めた。ジャズクラブで地元のバンドと共演しては、年長の演奏家たちのジャム・セッションにも臆せず加わった。1936年初め、カウント・ベイシー楽団とのセッションで即興中にコード進行を見失うと、ドラム奏者のジョー・ジョーンズがシンバルを足もとに投げつけて退場を促したという。パーカーはくじけるどころか猛練習を誓い、以後三、四年は一日に十五時間も練習したと、のちにポール・デスモンドに語っている。同じ1936年7月25日には、四歳年上の恋人レベッカ・ラフィンと結婚して二人の子をもうけたが、薬物の使用が増したことなどが原因で1939年までに離婚した。

1938年にピアニストのジェイ・マクシャンのバンドに入り、翌年ニューヨークに出た。皿洗いなどの仕事で食いつなぎ、貧しさのなかでアルト奏者のバスター・スミスに助けを求めて、六か月間その部屋に住まわせてもらった。この頃、ギター奏者との練習中に「チェロキー」を演奏しながら、半音階の十二音を使えばどの調へも旋律的に進めることに気づき、新しい即興の語法、のちのビバップにつながる道が開けたという。1940年代初頭からディジー・ガレスピーとともにビバップの形成に携わり、ジャズの巨人の一人、モダン・ジャズの父と呼ばれるようになる。1945年には若きマイルス・デイヴィスを自分のバンドに起用し、1947年にはマイルスの初のリーダー・セッションも支えた。ガレスピーとのアルバム『バード・アンド・ディズ』でビバップの誕生を告げ、セロニアス・モンクやバディ・リッチらも協力した。「オーニソロジー」「コンファメーション」「ナウズ・ザ・タイム」など、後年まで演奏される作品も多く残した。

若い頃から麻薬やアルコール、女性に耽溺して心身を損ない、幾度も精神病院に入院する破滅的な生涯を送った。1954年に娘が三歳で亡くなった年には自殺未遂をはかって入院している。晩年は演奏に衰えが見え、1955年3月12日に肺炎で亡くなった。三十四歳だった。死の数か月前には、麻薬中毒の治療のための入院費用を工面するため、生涯唯一の教則本の契約を結び、1955年に出版された。その生涯は1988年、クリント・イーストウッド監督の映画『バード』で描かれた。

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