伝記
ピエール・テイヤール・ド・シャルダンは、1881年5月1日、フランス中部のオーヴェルニュ地方に、十一人兄弟の四番目として生まれた。家はルイ十八世の時代に叙爵された貴族の家柄である。この地方は火山性の地質で、父エマニュエルがアマチュアの自然学者でもあったため、地質学や古生物学への関心は少年時代に育まれた。1899年にイエズス会の修練院に入ったが、修道会がフランスから追放されたため、ジャージー島へ移って哲学を学んだ。その後、物理学と化学の教師としてカイロのイエズス会の高等学校に派遣され、エジプトで教えるかたわら、発掘調査などを個人で行った。
1911年、イギリスで司祭に叙階された。パリの自然史博物館では古生物学者マルスラン・ブールの弟子となり、1922年に博士号を取得して、パリのカトリック学院の教授になった。同じイエズス会士の神父との出会いから中国へ招かれ、地質学と考古学を学び、モンゴルやオルドスへ科学的な調査旅行に出かけた。1924年にはパリに一時帰国したが、上長から思想に問題があると指摘され、中国へ戻った。1929年10月、カナダ人の研究者とともにパリの博物館へ電報を打ち、北京原人の発見を報告した。周口店で出た旧石器時代の石器を鑑定し、北京原人がこれらの石器を使っていたと判断している。その後もゴビ砂漠や中央アジア、インド、ビルマ、ジャワへ研究旅行を重ねた。
1939年に日本軍が進出すると、北京の外国人は軟禁に近い状態に置かれたが、彼は進化についての思索に没頭し、『現象としての人間』を書き上げた。1945年の第二次世界大戦の終結後、考古学者としての名声を背にヨーロッパへ戻ったものの、カトリック教会とイエズス会は彼の思想を危険とみなし、ニューヨークへ移らせた。ニューヨークで過ごす合間にアフリカへ旅し、発見されて間もないアウストラロピテクスの研究にも携わった。1955年4月10日、ニューヨークで死去し、ハドソン川沿いにあるイエズス会の修練院の墓地に葬られた。『現象としての人間』は死後間もなく出版された。
この著作が示したのは、キリスト教的な進化論である。宇宙は生命を生み、生物圏を確立し、神経系の高度化は知性を持つ人間を生んだ。人間は意志と知性によって生物圏を越え、叡智圏と呼ばれる新しい段階へ上ろうとしており、その究極にあるのがオメガ点である。テイヤールはオメガを、未来に達成され出現する宇宙的なキリストと捉え、人間も生物も宇宙全体も、その実現によって完成され救済されると考えた。この考えは創世記の伝統的な創造論の立場を離れるもので、当時のローマは、アウグスティヌス以来の原罪の教理を否定することになると見なした。教皇庁は進化論を認めていなかったため、著作は危険思想として禁書とされたが、死後に解かれた。草稿の複写は回覧され、多くの人に読まれた。1962年には聖庁が、その著作に曖昧さと教義上の誤りがあるとして警告を出している。
その後、アンリ・ドゥ・リュバックは1960年代に三冊の本を書いてテイヤールの正統性を擁護し、のちの教皇ベネディクト十六世となるラッツィンガーもその思想を熱烈に語った。2009年にはバチカンの報道官が、今では誰も彼を研究すべきでない異端の著作家だとは言わないだろうと述べ、教皇フランシスコも回勅で彼の貢献に言及した。一方、実証科学の立場からは、科学では確かめられない領域に臆断的な命題を持ち込んでいるとして、論理的誤謬の上に築かれた進化論だとの批判を受けている。
同じ年に亡くなった人物
- マーキーズ・ホア (1955年没)
- マルガレーテ・クレメンティーネ・フォン・エスターライヒ (1955年没)
- エマニュエル・ドゥ・マルトンヌ (1955年没)
- エメット・ティル (1955年没)
- カール・ミレス (1955年没)
同じ地域に関係する人物
- サミュエル・L・ミッチル (1831年没)
- ジョン・カーライル (1910年没)
- カール・ワーナー (1995年没)
- Manuel Diaz (1929年没)
- ガーソン・ケニン (1999年没)