HISTORICAL PERSON · 1955年没

アルテュール・オネゲル

スイスとフランスの二重国籍の作曲家。フランス六人組の一人で、パリ音楽院ではミヨーと同窓となり、生涯の親友となった。

生涯
1955年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
フランス共和国(ル・アーヴル)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

アルテュール・オネゲルは、1892年3月にフランスのルアーブルでスイス人の両親のもとに生まれた作曲家で、スイスとフランスの二重国籍を持ち、主にフランスで活躍した。本来の名はオスカル=アルテュールだが、「オスカル」の部分は使われなかった。父はコーヒーの輸入商社の支配人を務め、母ジュリー・ユルリックとともに音楽の愛好家で、母はピアノも得意だった。幼い頃は母から音楽の手ほどきを受け、最初はヴァイオリンを習ったが、作曲の試みはこの頃から始まっていたとオネゲル自身が語っている。音楽を習うよりも、港へ行って船を眺めるほうが好きだったという。1904年頃には詩や小説を書こうとしたこともあった。

1905年に教会のオルガニストを経て和声法と対位法を学び、チューリッヒ音楽院の院長だったフリードリヒ・ヘーガーに勧められて作曲家を志した。1910年に故郷で最初の作品『ピアノのための3つの小品』が出版され、1911年にパリ音楽院に入学した。同窓生のダリウス・ミヨーとは、生涯にわたる親友となった。第一次世界大戦ではスイス軍に従軍し、国境警備にも就いたが、まもなくパリに戻り、以後は生涯のほとんどをパリで過ごした。1913年にはのちの妻となるアンドレ・ヴォラブールと出会い、数年後に結婚している。

コクトーのグループに属し、「フランス6人組」の一人として世に出たため、フランスの近代作曲家と見なされるようになった。しかし自身はプロテスタントで、チューリッヒに籍を持ち続け、ドイツ語圏のワーグナーに強い共感を寄せていたため、反ワーグナーを掲げた他のメンバーとは距離があった。1921年発表の『ダヴィデ王』で6人組ではなく独立した作曲家として高く評価され、1925年にクーセヴィツキーがパリで初演した交響的断章第1番『パシフィック231』が大評判となって、一躍時代の寵児となった。1934年から1935年にかけては、イダ・ルビンシュタインを想定し、ポール・クローデルの協力を得て劇的オラトリオ『火刑台上のジャンヌ・ダルク』を完成させ、熱狂的な成功を収めた。全5曲の交響曲や室内楽のほか、1927年の無声映画『ナポレオン』をはじめ50以上の映画音楽も手がけた。著書『わたしは作曲家である』では、作曲家という仕事の報われなさや音楽の将来への悲観を、西欧文明の未来への悲観と重ねて語っている。

1947年夏に自作の指揮と講演のためアメリカを訪れた際、ニューヨークで狭心症で倒れ、4か月かけて少しずつ回復した。以後は帰国後もドイツやスイスで療養し、食事療法も行った。この時期に書いた最後の作品が『クリスマス・カンタータ』である。1955年11月27日、パリのモンマルトルの自宅で医師の往診を待っていたとき、ベッドから起き上がろうとして妻の腕の中で意識を失い、そのまま63年の生涯を閉じた。死因は血栓症で、遺体はモンマルトルのサン・ピエール小墓地に埋葬された。若い頃はタバコのパイプを集めるのが趣味で、後年は若手作曲家のための国際マスタークラスも開いた。スイスでは一般にスイス人として認知され、その肖像は1996年から発行されたスイスの20フラン紙幣に描かれた。

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