伝記
ジョルジェ・エネスクは、1881年8月19日にルーマニアのリヴェニ村に生まれた作曲家、ヴァイオリニスト、ピアニスト、指揮者、音楽教師である。日本ではフランス語表記に倣ってジョルジュ・エネスコと書かれることもある。幼年期から楽才を示し、父に連れられて作曲家エドゥアルド・カウデラを訪ねたところ才能を認められ、ヤシの音楽学校への入学を許された。7歳でウィーン音楽院に進み、ヨーゼフ・ヘルメスベルガー、ロベルト・フックス、ジギスムント・バハリヒに師事して、13歳になる前に銀メダルを授与された。学友にはツェムリンスキーがいた。ウィーンの演奏会ではメンデルスゾーンやサラサーテ、ブラームスを弾き、ブラームス本人と面会して励まされたことから、フランスに渡ってからもブラームスの作品の支持者であり続けた。
1895年にパリ音楽院へ移り、ヴァイオリンをアルマン・マルシック、和声とフーガをアンドレ・ジェダルジュ、作曲をマスネとフォーレに学んだ。ジェダルジュの『フーガの教程』には、エネスクが音楽院でフーガの一等賞を取った作品が模範例として挙げられている。作曲は1890年ごろに始めており、早熟の天才としてウィーン時代から知られていた。初期にはワーグナーやブラームスの影響を受け、フランスに渡ってからはフォーレのほか、フランク、ダンディ、ショーソン、デュカスらの影響が加わった。第一次世界大戦までの初期には、ロマン主義の伝統に立つ華麗で色彩的な作風を取り、現在代表作として親しまれる2つの「ルーマニア狂詩曲」(1901年、1902年)はこの時期の作品である。
演奏家としては、クライスラーやティボーと並ぶ20世紀前半の三大ヴァイオリニストの一人とされる。情熱を感じさせる演奏と、ヴィブラートを程よく用いた独自の美音で知られ、二人ほど甘い音色ではなかったが、そのぶん精神的な奥行きや格調の高さを感じさせた。ピアニストとしても練達だったが、演奏するのはもっぱら自作に限られた。1920年代半ばからはヴァイオリン教師としても名高く、門下にユーディ・メニューイン、アルテュール・グリュミオー、クリスチャン・フェラス、イヴリー・ギトリスらがいる。1923年にはニューヨークでフィラデルフィア管弦楽団を指揮して指揮者デビューし、1937年から1938年にはニューヨーク・フィルハーモニーも指揮した。同胞の後進に与えるエネスク賞を1912年に設立するなど、ルーマニア音楽の普及にも努めた。
「協奏交響曲」の初演の失敗をきっかけに、作曲の筆は慎重になり、寡作になった。唯一のオペラ「エディプス王」は構想から10年以上かかって完成し、1936年の作品とされる。戦後の作風はルーマニアの民族音楽の影響が濃くなり、成熟期の代表作に「ヴァイオリン・ソナタ第3番」がある。第二次世界大戦後、ルーマニアが共産圏の支配下に入ると、パリに行ったまま二度と祖国に戻らなかった。晩年の作品の多くは未完のまま残された。1955年5月4日にパリで亡くなり、ペール=ラシェーズ墓地に埋葬された。ブカレストの交響楽団には彼の名がつけられ、同市には記念博物館が建てられ、肖像は5レイ紙幣に使われている。
同じ年に亡くなった人物
- William Alexander Smith (1955年没)
- トーマス・マン (1955年没)
- ウィリアム・ギャン (1955年没)
- モーリス・ユトリロ (1955年没)
- ロバート・フランシス (俳優) (1955年没)
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- サラ・コフマン (1994年没)
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