伝記
クレメンス7世は、教会大分裂のはじまりとなった対立教皇である。本名はロベール・ド・ジュネーヴといい、1342年にアヌシーで生まれた。父はジュネーヴ伯アメデウ3世、母はオーヴェルニュ伯兼ブローニュ伯の娘マオで、4人の兄と7人の姉妹がいた。1349年に母方の従姉ジャンヌがフランス王ジャン2世の後妻になったことから、フランス王家と親しい間柄になった。
聖職者になったロベールは、パリの司教区参事会員を経て、1359年にアヴィニョンの教皇庁の書記官となった。1361年にテルアンヌ司教、1368年にカンブレー大司教となり、1371年5月30日に教皇グレゴリウス11世から枢機卿に任じられた。1376年から1378年にかけては教皇特使として、フランス人が主導権を握る教皇庁に反感を抱く教皇領の都市の反乱を防ぎ、鎮めるため、北中部イタリアに赴いた。1377年、反乱を起こしたチェゼーナを鎮圧するため、自ら軍を指揮した。このとき、傭兵隊長ジョン・ホークウッドの部隊が約4000人の市民を虐殺する事件が起こった。真相は明らかではないが、ロベールが虐殺を指示または承認したという話が広まり、「チェゼーナの大虐殺者」の汚名を着せられた。この事件は、ローマでの教皇に対する市民の激しい抗議を招いた。
1378年3月27日にグレゴリウス11世が亡くなり、ローマでコンクラーヴェが開かれた。イタリア人の教皇を求めるローマの市民に取り囲まれたまま、枢機卿団は4月8日、圧力に屈してナポリ出身のウルバヌス6世を選んだ。ロベールは枢機卿のなかで最初にウルバヌス6世への支持を表明した人物だったが、即位後の粗暴な振る舞いに失望し、ほかのフランス人枢機卿とともに対立を深めた。8月9日、ロベールらはアナーニでウルバヌス6世の選出を無効と宣言し、9月20日にフォンディに集まって教皇選挙をやり直し、ロベールが教皇に選ばれた。ロベールはクレメンス7世と名乗り、フランス王シャルル5世とナポリ女王ジョヴァンナ1世が積極的に支援した。サヴォイア、シチリア、スコットランド、ハプスブルク家の君主や教会も、その権威を認めた。一方、神聖ローマ皇帝カール4世、のちには息子のヴェンツェル、イングランド、イタリアの中部と北部、ドイツの大部分は、ウルバヌス6世の側についた。はじめは中立だったイベリア半島の国々も、のちにクレメンス7世の側に回った。
クレメンス7世は1379年4月にローマの攻略に失敗し、フランス人枢機卿らの意見で、やむなくアヴィニョンに本拠を置いた。しかし、重要な財源である教皇領の税収が見込めず、すぐに財政難に陥った。そのため、それまで非課税だった修道院にも課税を強行し、ほかにも増税を重ねて不評を買った。ナポリの王位をめぐっては、ウルバヌス6世が認めるカルロ3世の系統と、クレメンス7世が認めるルイ・ダンジューの系統が並び立ち、それぞれの教皇を後ろ盾にして激しく争った。
1389年にウルバヌス6世が死去すると、クレメンス7世は、教皇座をひとつにするため、ローマの枢機卿団が自分をあらためて選ぶことを期待した。しかし選ばれたのはボニファティウス9世で、即位後すぐに退位を迫り、拒まれると破門を宣告した。クレメンス7世も、相手の破門を宣告して応じた。このころ、弟ピエールが子のないまま亡くなり、ジュネーヴ伯の称号も受け継いだ。両者はまったく歩み寄らず、1394年9月16日、クレメンス7世は脳卒中で亡くなった。アヴィニョンの枢機卿たちは次の教皇にベネディクトゥス13世を選び、教会大分裂は続いた。
同じ年に亡くなった人物
- 長慶天皇 (1394年没)
- モンタウのドロテーア (1394年没)
- ナーシルッディーン・ムハンマド・シャー (1394年没)
- イブン・ラジャブ (1394年(推定))
- Nerio I Acciaioli (1394年)
同じ地域に関係する人物
- アルベール・グレーズ (1953年没)
- ニコラウス5世 (対立教皇) (1333年没)
- シャルル・ド・ロレーヌ (1524-1574) (1574年没)
- アメデーオ5世・ディ・サヴォイア (1323年没)
- ジャン・ラクチュール (2015年没)