HISTORICAL PERSON · 1393年没

ネポムクのヨハネ

14世紀ボヘミアの司祭で、プラハ大司教の総代理を務めた。ヴァーツラフ4世を怒らせて拷問を受け、1393年に死亡し、遺体はカレル橋から川に投げ込まれた。1729年に列聖され、ボヘミアの守護聖人とされる。

生涯
1393年没
死亡地
チェコ共和国(プラハ)
出生地
チェコ共和国(ネポムク)
出典
世界地図
チェコ共和国(プラハ)

伝記

ネポムクのヨハネは、14世紀のボヘミアの司祭で、のちにローマ・カトリック教会の聖人とされた人物である。1340年ごろ、南ボヘミアのポムク(現在のネポムク)に生まれ、その地名が呼び名の由来となった。父はポムクの村長を1355年から1367年まで務めたヴェルフリンという人物で、この名からドイツ系の一家だったとする説もある。プラハで学び、1369年にプラハで書記に任じられたという記述があり、1378年には大司教の書記になったとされる。教会法を学び、1383年から1387年にはパドヴァ大学でも学んだという。司祭に任じられ、1393年にはプラハ大司教ヤン・イェンシュテインから総代理に任じられた。

ヨハネの死の背景には、当時のボヘミア王ヴァーツラフ4世とカトリック教会の対立があった。大司教イェンシュテインはローマ教皇ボニファティウス9世の下にあったが、王はアヴィニョンの教皇庁と対立教皇クレメンス7世を支持していた。1393年、王はベネディクト会のクラドルビ修道院の収入を取り込もうとし、大司教がこれに反対した。怒った王は大司教とその部下を呼びつけて逮捕させた。大司教は逃れたが、ヨハネら4人が捕らえられて拷問を受け、ヨハネだけが最後まで大司教への忠誠を貫いたという。空席となっていた修道院長の人選をめぐる争いに巻き込まれたとする説や、司祭として知った王妃の告解の内容を王に明かすことを拒んだからだとする説もある。

3月20日、ヨハネはカレル橋からヴルタヴァ川に投げ込まれ、落命した。罪を犯した聖職者に通常とられた処刑の方法であったが、実際には拷問で死に、その原因を隠すために遺体が川に捨てられたのではないかともいわれる。遺体は川岸で見つかり、近くの教会に運ばれた。王が領地へ出かけたすきに、聖ヴィート大聖堂に葬られたが、これは王に対する公然とした侮辱であった。1か月余りのち、イェンシュテインは教皇にヴァーツラフの罪の証拠を示し、ヨハネを「栄光あるキリストの殉教者」と呼んだ。1400年にヴァーツラフがニュルンベルクの帝国議会に召喚されたとき、ヨハネの殺害は王に対する罪状の一つに挙げられた。

15世紀の半ばまでには、この事件が、告解の秘密の大切さを示す物語に作り替えられていた。王が妻の告解を聞いたヨハネを処刑したという話は、1459年の年代記に初めて現れ、1471年の書物では、嫉妬した王が妻の恋人の名を明かすよう迫り、断られて溺れさせたと脚色された。1483年にはヨハネの死が1383年とされる誤りも生まれ、1541年には、1383年に王妃の告解を守って殺された者と、1393年に修道院長をめぐる争いで殺された者の、2人のヨハネがいたという説も唱えられた。18世紀の列聖の調査では、舌が腐らずに残っていたことが奇跡と認められた。1721年5月31日にインノケンティウス13世によって列福され、1729年3月19日にベネディクトゥス13世によって列聖された。ボヘミアの守護聖人であり、聴罪司祭などの聖職者の、また水難から守る船員や橋の守護聖人として崇敬されている。聖人の象徴である5つの星には、遺体の場所を5つの星が示したという伝説や、キリストの5つの傷にちなむとする説がある。カレル橋の像の台座のレリーフをなでると幸運が訪れると信じられている。

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