伝記
後円融天皇は、北朝の第5代天皇である。諱は緒仁といい、後光厳天皇の第二皇子として、延文3年12月12日(西暦1359年1月11日)に生まれた。母は広橋仲子(崇賢門院)で、実父は石清水八幡宮の神職の善法寺通清にあたる。仲子の実姉の紀良子は、室町幕府の第3代将軍足利義満の生母であり、後円融と義満は従兄弟の間柄であった。
後光厳天皇は、兄の崇光上皇との間に皇位継承の問題を抱えていたが、応安3年(1370年)8月に第二皇子への譲位の意向を示して幕府管領の細川頼之に使者を送り、幕府や公卿の支持を得た。応安4年(1371年)3月21日に緒仁の名で親王宣下を受け、23日には元服と譲位が行われて、後円融が即位した。後光厳上皇による院政も始まった。ところが、即位礼の直前の同年12月2日に、興福寺の衆徒が春日神木を奉じて入洛し、強訴を起こした。後光厳は神木を洛外に遷そうとして衆徒の怒りを買い、側近が次々と放氏に処された。交渉は難航し、応安6年(1373年)には後光厳が自ら交渉に乗り出したが、疱瘡を患い、応安7年(1374年)1月29日に崩御した。後円融の即位礼は、神木が帰座した直後の12月28日に、践祚から足掛け4年を経て行われた。
17歳の後円融は、父の中陰が明けた直後の4月7日に奏事始を行い、議定衆と伝奏を指名した。幕府からは、政務を二条良基に任せるよう申し入れがあったが、良基は放氏を理由に指名されなかった。永和元年(1375年)2月から3月にかけて鬼間議定始、御前議定始、記録所始が行われ、後円融の親政が正式に始まった。しかしその親政のもとで、訴訟制度の整備などの政務は急速に衰え、朝儀も多く廃絶した。寺社の強訴も相次いだ。良基は義満に期待して朝儀の作法を伝え、義満は朝廷で昇進を重ね、永和4年(1378年)8月には権大納言と右近衛大将を兼ね、翌年7月には武家として初めての拝賀を遂げた。後円融は、良基や義満らと、たびたび衝突した。永徳元年(1381年)には、妃の厳子の父三条公忠との間にも軋轢が生じ、そのさなかに、後円融は「口もきかず顔も見たくない」として厳子を追放したという。
永徳2年(1382年)4月、後円融は皇子の幹仁(後小松天皇)に譲位し、院政を敷いたが、院評定はいつまでも開かれなかった。後小松の即位礼の準備を放棄し、同年12月28日の即位礼を欠席している。永徳3年(1383年)には、義満の献じた正月儀礼の費用を突き返し、仙洞御所の行事がすべて止まった。1月29日の後光厳の供養仏事には、参列する人もほとんどなかった。その2日後の2月1日夜、後円融は厳子の部屋に乱入し、刀の峰で打ち据えて、何度も意識を失うほどの重傷を負わせた。さらに、義満が自分を流罪にしようとしていると思い込み、持仏堂に立て籠もって切腹すると宣言した。母の仲子のとりなしで切腹はせず、仲子の邸宅に引き取られて落ち着きを取り戻した。以後は義満や良基との関係が修復され、義満は後円融の院政を仕切り直した。
その後は目立った行動はなく、明徳4年(1393年)4月26日に36歳で崩御した。この崩御をもって、公家による政治は事実上終わったとされる。
同じ年に亡くなった人物
- ファー・グム (1393年)
- バグラト5世 (ジョージア王) (1393年)
- ジュスト・デ・メナブオイ (1393年)
- ブランシュ・ド・フランス (オルレアン公爵夫人) (1393年)
- ジャン1世 (ラ・マルシュ伯) (1393年没)
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