伝記
ヨハネス5世パレオロゴスは、1332年に東ローマ帝国の皇帝アンドロニコス3世の長男として生まれた。父が早世したため、1341年に9歳で即位する。そのため国政の実権は皇太后アンナ(サヴォイア伯家出身)とコンスタンティノポリス総主教ヨハネス14世カレカスが握り、摂政政府が成立した。摂政政府は父の重臣ヨハネス・カンタクゼノスと対立し、5年以上に及ぶ内乱に入る。内乱は1347年にカンタクゼノスの勝利に終わり、彼は娘ヘレネーをヨハネス5世と結婚させて義父となったうえで、自らも皇帝ヨハネス6世として戴冠し、実権を握った。ヨハネス5世は「熱心党」の支配が終わったテッサロニキの行政職に残され、首都の政局から遠ざけられたが、周囲には反カンタクゼノス派の有力者や市民が集まり、対立は次第に深まっていった。
1352年、ヨハネス5世はセルビア王ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンと同盟してヨハネス6世に宣戦したが、ヨハネス6世を支援したオスマン君主オルハンに敗れ、いったん亡命を余儀なくされた。その後、レスボス島のジェノヴァ人領主ガッティルシオ家の支援で帰国し、1354年末にヨハネス6世を隠退させて支配権を回復する。しかし内乱の間に、帝国はテッサロニキを除くマケドニアの大半やエピロス、テッサリアなどバルカン半島西部の主要な領土をセルビアに奪われていた。また、ヨハネス6世を支援していたトルコ人がバルカンに上陸して定着し、1360年代の数年間にアドリアノープルをはじめ首都周辺の地を支配下に収めた。ヨハネス5世は西欧勢力との同盟に解決を求めて外交に乗り出したが、実質的な成果は得られず、1370年には交渉のために赴いたヴェネツィアで負債返済の件により拘束される始末であった。
身内にも問題があった。長男のアンドロニコス4世は共同皇帝で後継者に指名されていたが、父を排除して支配権を握ろうと陰謀を巡らせた。1373年の反乱は失敗したものの、1376年のクーデターは成功し、ヨハネスは次男マヌエル2世とともに廃位・投獄される。復位を助けたのは、皮肉にも宿敵のオスマン帝国であった。スルタンのムラト1世は、復位を援助する代わりに属国となることを求め、復位したヨハネス5世は1381年にやむなくこれに臣従し、東ローマ帝国はオスマン帝国の属国となった。アンドロニコスが1385年に亡くなった後も、その息子ヨハネス7世が機会をうかがい、1390年にクーデターでヨハネス5世を廃位した。しかしマヌエル2世の救援とオスマン帝国の支援により反撃に成功し、ヨハネス5世は復位して、以後はマヌエル2世との共同統治となった。
ところがオスマン帝国は今回も救援の代償を求め、バヤズィト1世は小アジアの都市フィラデルフィアの割譲、コンスタンティノポリスへのカーディーの設置、城壁付属の要塞の取り壊しなど、過酷な要求を突きつけた。ヨハネスはこれらを呑み、心労が重なって翌1391年に亡くなった。
治世の評価は高くない。帝国の縮小と凋落に重なっているうえ、状況の主導権をほとんど握れなかったためである。不遇のなか、晩年は万事に無気力となり現実の問題から背を向けがちだったとする記録もある。妻ヘレネーとの間には、長男アンドロニコス4世、次男マヌエル2世、三男ミカエル、四男テオドロス1世らがあった。四男テオドロスは、帝位継承権から遠かったため対立の要素がなく、息子のなかで唯一一貫して父に忠実で、1382年にペロポネソス半島へ派遣されて統治にあたった。
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