伝記
アンドレ・ドランは、1880年6月10日にパリ西郊のシャトゥーで生まれたフランスの画家で、アンリ・マティスらとともにフォーヴィスム(野獣派)の運動で指導的な役割を果たした。裕福な家庭に育ち、父は乳製品とアイスクリームの店を営み、市議会議員も務めていた。母は幼い子を何人も亡くしており、兄のルネも1890年に亡くなっている。ドランは一時、郊外の里親のもとに預けられ、リセ・シャプタルに通った。絵を描きはじめたのは15歳ごろとされる。18歳でウジェーヌ・カリエールが指導するアカデミーに入り、技師になる勉強をしながら絵を学んだ。1900年に郊外電車の中で画家モーリス・ド・ヴラマンクと知り合い、翌1901年にはルーヴル美術館で模写をしているときにマティスと出会った。貧しい若い画家だった二人は、シャトゥーに共同のアトリエを構えて制作した。1901年から1904年まで兵役につき、除隊後は風景を描きはじめ、ヴラマンクの小説の挿絵も手がけた。独学で美術館に通い、ゴッホを知ったのは1901年、1903年の第1回サロン・ドートンヌではセザンヌの作品に強い印象を受けたという。
1905年、マティスとともに地中海の港町コリウールに滞在して制作し、その豊かな色彩は二人の作風に決定的な影響を与えた。この年の秋のサロン・ドートンヌで、マティスらの作品を集めた部屋は批評家ルイ・ヴォークセルに「野獣の檻」と呼ばれ、これが野獣派の名の由来となった。ドランはこの展覧会に油彩5点とパステル4点を出品し、同じ年に画商アンブロワーズ・ヴォラールと契約を結んでいる。1905年末から1906年初めにかけては、ヴォラールの勧めでロンドンに滞在し、テムズ川沿いの風景を描いた。このころからアフリカの彫刻に心を奪われ、ヴラマンクとともに収集を始め、ファン族の仮面も入手した。1907年にはモンマルトルに移り、ピカソら「洗濯船」の画家たちと交流するようになり、詩人アポリネールとも知り合って、その最初の詩集の挿絵を描いている。1908年から1910年にかけてはマルティーグやカダケスなどで制作し、ブラックやピカソとともにキュビスムの最初の段階にも関わったが、1911年ごろから遠近法や明暗法に基づくより伝統的な画風へ戻りはじめた。
1919年には、セルゲイ・ディアギレフ率いるバレエ・リュスの「風変わりな店」の美術と衣装を手がけ、以後晩年までバレエやオペラの衣装と舞台装飾に取り組んだ。1921年のイタリア旅行を機に、作風はアカデミックなものへと回帰し、古典的な陰影や遠近法、落ち着いた色彩で静物や人物を描いた。1926年に、ピカソのモデルも務めたアリス・ジェリーと結婚している。ヴィシー政権下ではパリに住み、ナチス・ドイツにフランス文化の権威として利用される形となり、1941年にドイツを訪れた。このため、終戦後はナチス協力者とみなされ、事実上の追放処分を受けた。風景、人物、静物とさまざまな画題を手がけ、作風も点描に近い風景画からキュビスム風の静物画まで幅広い。晩年には病で片目の視力を失い、1954年9月8日、オー=ド=セーヌ県のガルシュで自動車事故のため亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- ジョージ・ケイ (1954年没)
- フランツ・レオポルド・ノイマン (1954年没)
- ロバート・ジャクソン (法律家) (1954年没)
- フレンチ・エンジェル (1954年没)
- オーギュスト・ペレ (1954年没)
同じ地域に関係する人物
- マルセル・デュシャン (1968年没)
- エミール・ボドー (1903年没)
- ジャン・フォートリエ (1964年没)
- ミハイル・ラリオーノフ (1964年没)
- ガートルード・スタイン (1946年没)