HISTORICAL PERSON · 1384年没

レジーナ・デッラ・スカラ

ミラノの僭主ベルナボ・ヴィスコンティの妻。ヴェローナとミラノの政治的結びつきを築いた縁組で嫁ぎ、15人の子女を各地の有力者に嫁がせ姻戚網を広げた。

生涯
1384年没
死亡地
イタリア共和国(ローディ県 / サンタンジェロ・ロディジャーノ)
出生地
イタリア共和国(ヴェローナ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローディ県)

伝記

ベアトリーチェ・レジーナ・デッラ・スカラは、1331年に生まれたイタリアの貴族女性で、ミラノの僭主ベルナボ・ヴィスコンティの妻である。ヴェローナの僭主マスティーノ2世と、パドヴァの僭主ジャーコポ1世の娘タデア・ダ・カッラーラとのあいだの末の子だった。3人の兄と1人の姉がおり、異母のきょうだいも5人いた。母のタデアは、カッラーラ家とデッラ・スカラ家の平和を保つためにマスティーノへ嫁がされたが、これは失敗に終わり、ベアトリーチェは親族どうしの武力の争いのなかで育った。

ベアトリーチェの生まれたころ、デッラ・スカラ家はパドヴァから東のトレヴィーゾまで領土を広げ、その財産はフランス王に匹敵したという。しかし近隣の領主たちは脅威を感じて同盟を結び、1339年までにその領土の大部分を奪った。父のマスティーノの手元に残ったのは、ヴェローナとヴィチェンツァの2都市だけだった。父は領地を守るためにボローニャの領主タッデオ・ペポリと結ぼうとし、1342年、11歳のベアトリーチェは、タッデオの甥でピアチェンツァの代官アンドレア・デイ・ペポリと婚約した。ところが1340年代の末、ミラノの新しい領主ジョヴァンニ・ヴィスコンティが領土を狙うようになると、父は脅威にさらされた。ジョヴァンニは甥のベルナボとベアトリーチェを結婚させて、敵ではなく味方にしようとし、ペポリ家との婚約は破棄された。

1350年9月27日、19歳のベアトリーチェは、ヴェローナで、27歳のベルナボと結婚した。縁組はミラノとヴェローナの政治的な結びつきを固めるものだった。1351年に最初の子として娘タデアが生まれ、この年に父マスティーノが亡くなって、兄のカングランデが跡を継いだ。1354年にベルナボがミラノの領主となると、ベアトリーチェは「ミラノの貴婦人」と呼ばれた。レジーナという名は、その堂々とした振る舞いから添えられたといわれ、後世の歴史家は、正当な資格がないのに「女王」と呼ばれることを望んだとして、傲慢を責めている。1356年にレッジョ・エミリアが征服されると、ベルナボはこの町の統治を妻にゆだね、用件は自分ではなく妻に申し出るように告げた。ベアトリーチェは陳情の聞き取りや裁きを行った。

1359年には、兄のカンシニョーリオが、兄弟のカングランデを暗殺して、ヴェローナの領主になった。ベルナボは残酷で容赦のない専制君主で、教会の仇敵だったといわれ、1363年に教皇ウルバヌス5世から異端として破門された。ベルナボがしばしば激しく怒ったとき、近づけたのはレジーナだけで、その意志の強さと夫への影響力は知られていた。シエナのカテリーナは、ベルナボに政治上の頼みごとがあるとき、彼女を仲立ちに使った。ベルナボとのあいだには15人の子女が生まれた。1364年にタデアがバイエルン公シュテファン3世と、1365年にヴェルデがオーストリア公レオポルト3世と結婚するなど、子どもたちはヨーロッパ各地の王侯と縁を結び、1378年には娘ヴァレンティーナがキプロス王ピエール2世と結婚した。1380年には、娘カテリーナが、のちのミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティと結婚している。レジーナは1384年6月18日に亡くなった。

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