HISTORICAL PERSON · 1953年没

ヴェラ・ムーヒナ

ソ連の彫刻家。1937年のパリ万博のソ連館の頂上に置かれた高さ24.5メートルの巨大彫刻『労働者とコルホーズの女性』で国際的に注目された。

生涯
1953年没
死亡地
ロシア連邦(モスクワ)
出生地
ラトビア共和国(リガ)
出典
世界地図
ロシア連邦(モスクワ)

伝記

ヴェラ・ムーヒナは、1889年にリガの裕福な商家に生まれたソビエト連邦の彫刻家である。ヴェーラ・イグナーチエヴナ・ムーヒナという。当時のリガはロシア帝国領リヴランド県にあたった。父は著名な商人で慈善家でもあり、先祖は大麻を扱う卸売商で、1812年の祖国戦争ののちにリガに住むようになったという。生家であるツルゲーネヴァ通り23/25番地には、今は記念の銘板が飾られている。母は彼女が2歳のときに結核で亡くなり、父は娘の健康を案じて、幼い彼女をフェオドシヤへ連れて行った。そこで最初の素描や絵画の手ほどきを受けたが、1904年に父が亡くなり、姉のマリアとともにクルスクの叔父叔母に引き取られ、ギムナジウムを優秀な成績で卒業した。その後はモスクワに移り、コンスタンチン・ユオンやイリヤ・マシコフらのもとで絵画を学んだ。

1912年にはパリに遊学し、アカデミー・コラロッシに通い、グランド・ショミエールで彫刻家アントワーヌ・ブールデルに師事した。さらにイタリアへ渡り、ルネサンス期の彫刻や絵画を見て学んでいる。1914年夏にモスクワへ戻り、2週間後に第一次世界大戦が始まった。看護の課程を終えて軍の病院で働き、そこで知り合った若い軍医アレクセイ・ザムコフと結婚した(1918年とされる)。1915年から翌年にかけては、アレクサンドル・タイロフ率いるモスクワの劇場で、美術家アレクサンドラ・エクステルの助手として舞台装置作りに従事し、ロシア・アバンギャルドの萌芽に立ち会った。革命後はレーニンの記念碑的宣伝計画のもとで、啓蒙家ノヴィコフの記念碑案などを手がけたが、粘土の像は暖房のない工房で寒さのために崩れたと伝えられる。

1920年代には革命後のロシアの新鋭彫刻家として名を高めた。キュビスム的な彫刻を手がけたのは1922年ごろまでで、その後は様式の面でも思想の面でも社会主義リアリズムに近づいた。1925年にはデザイナーのナジェージダ・ラマノヴァとともにパリの展覧会で婦人服のコレクションによりグランプリを受け、1926年からは国立の芸術学校ヴフテマスなどで教えた。1927年の彫刻『農村の女性』は革命10周年の展覧会で一等賞を得ている。1930年代にスターリン体制が固まると、アバンギャルドは終息し、社会主義リアリズムが公式の芸術となった。彼女はその代表的な芸術家として仕事を得て、1937年のパリ万博でソ連パビリオンの頂上に置かれた高さ24.5メートルの巨像『労働者とコルホーズの女性』で、国際的に注目された。この像は、スポット溶接で組み立てられた世界最初の立体像とされ、重量は75トン、木の骨組みの周りにステンレス鋼の板を継ぎ合わせたものである。労働者がハンマーを、女性が鎌を掲げ、ソ連の象徴である鎌と槌を表した。1947年にはモスクワの全ロシア農業博覧会に恒久設置され、モスフィルムのロゴにもなっている。

自らのスタジオと多数の助手を抱え、政府の注文による公式の記念碑や巨大な彫刻を、没するまで制作し続けた。ガラスを用いた彫刻的な実験も行い、1941年から1952年のあいだにスターリン賞を5回受け、1943年にはソ連人民芸術家の称号を得た。1952年にはゴーリキー市のマキシム・ゴーリキー記念碑を手がけ、1953年には著書『ある彫刻家の思考』を発表した。ソ連によるバルト三国併合後、リガの自由の記念碑が解体されそうになった際には、人民芸術家としての影響力を使ってその芸術性を認めさせ、解体を阻んだとされる。1953年にモスクワで没し、ノヴォデヴィチ墓地に葬られた。

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