伝記
フランシス・ピカビアは、1879年1月22日にパリで生まれた画家・詩人である。生まれたときの名はフランソワ=マリー・マルティネス・ピカビアといい、のちに父フランシスコの名に近いフランシスを通称とし、バスク系の祖母の姓ピカビアを芸名とした。父はキューバ公使館に勤める人物で、母はフランス人だった。父方の祖父はガリシアからキューバへ渡った人で、母方の祖父アルフォンス・ダヴァンヌは化学者で写真家、フランス写真協会の会長も務めた。母マリーは1886年に亡くなっている。恵まれた家庭に育ち、コレージュ・スタニスラスやリセ・モンジュで学んだ。
1894年、画才を試そうとした父が、息子の絵『マルティーグの眺め』をフランス芸術家サロンに出品した。翌年に装飾美術学校に入ったが、学校生活は波乱含みで、むしろルーヴル美術学校やアカデミー・ユンベールに通い、ジョルジュ・ブラックやマリー・ローランサンと同じ場で描いた。1897年には、6歳年上の最初の恋人エルミーヌ・オルリアックと暮らし始めた。成人して母の遺産を受け継ぐと、安定した収入を得た。モンマルトルに住みながら、モレ=シュル=ロワンやマルティーグ、サン=トロペをよく訪れ、ピサロの末の息子たちとも親しくなった。1902年にはエルミーヌをセビーリャへ連れて行き、伝統衣装のスペイン女性をたびたび描いたが、これは父方のルーツを探る試みだったとされる。1904年に印象派へ向かい、数百点の風景画を描いたが、屋外での制作よりアトリエでの制作が多く、絵葉書になった他人の作品や写真を手本にしたものもあり、複製の複製を作るようなやり方は、のちのダダにつながる最初の試みともいわれる。1905年にパリのオスマン画廊で開いた最初の個展では61点を並べ、勝利を収めた。1907年にも同画廊で76点を展示している。
しかし1908年にガブリエル・ビュッフェと出会うと、印象派や画商との関係を断った。以後は作風がめまぐるしく変わった。ひとまず時期を分ければ、1909年から1914年はフォーヴィスム、キュビスム、オルフィスムの時代となり、1913年のアーモリー・ショー以降は、アメリカとヨーロッパを行き来した。1915年から1924年は「機械の時代」「ダダの時代」で、ニューヨーク・ダダの一員でもあった。続いて「怪物の時代」(1924年-1927年)、「透明の時代」(1927年-1932年)、「模索の時代」(1932年-1939年)、「具象の時代」(1940年-1944年)があり、最後は非具象の「抽象の時代」(1945年-1951年)だった。代表的な作品には、1913年の『大西洋横断汽船に乗るスターダンサー』、1916年から1918年頃の『機械は速く動く』、1929年の『トランスパランス』などがある。
大のカーマニアで、生涯に自動車を127台も買い換えたという逸話が残る。1945年にパリへ戻り、1953年11月30日にパリで亡くなった。74歳だった。墓はモンパルナス墓地にある。日本では1984年に西武美術館で「ピカビア展・百の顔をもつダダイスト」、1999年から2000年にかけて「疾走するダダイスト・ピカビア展」が開かれ、横尾忠則はピカビアに私淑して、その作品をモチーフにした作品を制作している。
同じ年に亡くなった人物
- エミール・フィラ (1953年没)
- ミラード・ミッチェル (1953年没)
- チャールズ・ナイト (1953年没)
- ボグダン・コブロフ (1953年没)
- 近藤信竹 (1953年没)
同じ地域に関係する人物
- アンリ・コルディエ (1925年没)
- ロラン・バルト (1980年没)
- マルチェロ・マストロヤンニ (1996年没)
- フランソワ・ジェラール (1837年没)
- ジャン・ビュリダン (1358年没)