伝記
ルドヴィーコ2世・ゴンザーガは、1333年か1334年に生まれたマントヴァの僭主で、ルイージとも呼ばれる。マントヴァの人民隊長としては3代目にあたる。父はグイード・ゴンザーガ、母はベアトリーチェ・ディ・バールで、ウゴリーノ、ルドヴィーコ、フランチェスコの3兄弟の次男であった。祖父ルイージと父の時代のマントヴァは、教皇派と皇帝派の争いにさかんに巻き込まれていた。父は権力を握ったのち、3人の息子を統治に加わらせたが、長男のウゴリーノがまもなく主導力を見せて弟たちをしのいだ。1356年に、フェラーラ侯オビッツォ3世の娘アルダ・デステと結婚したとされるが、1365年とする記述もある。
1362年10月14日、弟たちはおそらく兄を妬んで、3人で開いた夕食の席でウゴリーノを殺した。ヴェネツィアがこの不満を利用したという疑いもある。この事件は兄弟の争いを理由にして部分的に覆い隠され、悲嘆にくれた父は、生き残った2人の息子を公に赦した。1366年にはのちの跡継ぎとなる息子フランチェスコが生まれた。父が死ぬ少し前、弟フランチェスコも不審な死をとげ、証拠はないものの、ルドヴィーコの関与が疑われている。こうして彼は父のただ一人の後継者となった。
1369年に父が死ぬと、35歳のルドヴィーコは、すぐには継承を求めなかった。父の死に彼が関わったと考える歴史家もおり、権力に貪欲ではないと示す狙いがあったともいわれる。やがて6か月後、混乱と不和に悩んだマントヴァの評議会が、人民隊長の職を続けるよう彼に求めた。無口で目立たない人物に見えたが、実際にはきわめて抜け目がなかったと評される。権力を握ると、ミラノとの友好の政策を取り、ヴィスコンティ家と固く結びついた。かつての宿敵であるミラノ領主ベルナボ・ヴィスコンティの娘アニェーゼを息子フランチェスコの妻とする縁組をまとめ、ミラノとマントヴァの敵意をやわらげた。ヴェネツィアとの通商の関係もつりあわせようとした。商売の才にも長け、まもなく大きな財を築いた。1373年には、親族のアントニオ・ゴンザーガらによる陰謀が企てられたが、秘密警察の働きと高まる信望によって未然に防いだ。外からの危険に備えて領土に大規模な要塞を築き、カスティリオーネ・マントヴァーノ、ボルゴフォルテ、ゴヴェルノーロ、セルミーデの城塞を強化した。1377年には、祖父ルイージがカングランデから借りていた金貨3万フローリンを、スカラ家に返すことに成功した。巧みな統治で国は経済的に栄えたと記憶されている。
1382年10月4日にマントヴァで没し、サン・フランチェスコ教会に葬られた。跡はフランチェスコ1世が継いだ。娘のイザベッラは、1386年にリミニ領主カルロ・マラテスタと結婚した。ほかに庶子フェーボがいる。
同じ年に亡くなった人物
- ケーストゥティス (1382年没)
- レオノール・デ・アラゴン (カスティーリャ王妃) (1382年没)
- ニコル・オレーム (1382年没)
- マルグリット1世 (ブルゴーニュ女伯) (1382年没)
- Peter II of Cyprus (1382年)
同じ地域に関係する人物
- グイード・ゴンザーガ (1369年没)
- バルバラ・フォン・ブランデンブルク (1423-1481) (1481年没)
- ベルナルド・タッソ (1569年没)
- マルゲリータ・ゴンザーガ (1564-1618) (1618年没)
- Publius Valerius Cato (紀元前50)