伝記
ユージン・グラッドストーン・オニールは、1888年10月16日にニューヨーク市のホテルで生まれたアメリカ合衆国の劇作家である。父はアイルランド系の有名な舞台俳優ジェームズ・オニール、母は女子修道院学校時代にピアニストを志したこともある専業主婦だった。一家はコネチカット州ニューロンドンに夏の別荘を持ち、オニールの最初の記憶は、そこで過ごした夏のことだったという。幼いころは父の旅公演について回り、カトリック系の寄宿学校を出たのち、1906年にプリンストン大学に入学した。だが勉強には興味がなく、もっぱら「読書・酒・女」の日々を送り、1907年には大学を中退した。
その後はニューヨークの通信販売の会社に勤めたものの、すぐに退職した。性急に結婚し、金鉱発掘の助手、父の劇団の俳優や助手、ニューロンドンの新聞記者など、職を転々とした。数年間は船乗りとして働いたこともあり、このときの経験は、のちの戯曲に何度も題材として取り上げられている。1912年、結婚の破綻や思うにまかせない自立に苦しんで自己嫌悪に駆られ、2月に自殺を図ったが未遂に終わった。10月に離婚が成立し、12月には結核と診断されて入院し、6か月ほど療養した。療養中に戯曲を書こうと思い立ち、処女作『クモの巣』を執筆した。退院後の1914年から1915年にかけては、ハーバード大学の演劇学教授が主催する「47ワークショップ」に参加して劇作を学んだ。
1916年、オニールは自作の戯曲を携え、マサチューセッツ州プロビンスタウンの小劇場劇団を訪れた。劇団員による朗読の後に熱烈に迎えられ、戯曲は上演されることになった。読まれたのはデビュー作『カーディフを指して東へ』で、オニール自身も出演した。英国のカーディフ港へ向かう貨物船の船倉を舞台にした一幕劇で、老水夫が見果てぬ夢を抱いたまま、港に着く前に死んでいく。自らの船員経験を、当時としては革新的なリアリズムの手法で描いた作品で、埠頭を改造した小劇場で大好評を得た。この成功を足がかりに、プロビンスタウン・プレイヤーズはオニールとともにニューヨークへ進出し、グリニッジ・ヴィレッジの劇場で一幕劇を次々に発表した。これはのちにオフ・ブロードウェイ運動の始まりの一つと見なされた。この時期に作家志望のアグネス・ボウルトンと再婚している。
1920年、ブロードウェイのモロスコ劇場で三幕劇『地平線の彼方』が上演され、160回を数えた。人生に失敗した主人公が夜明けとともに死を迎える暗いリアリズム劇でありながら成功を収め、オニールはピューリッツァー賞を受けた。同年11月には、脱獄囚の黒人が西インド諸島の島で皇帝として君臨し、反乱の末にジャングルをさまよって殺される一幕劇『皇帝ジョーンズ』を発表し、ユングの「集合的無意識」などを参考に表現主義的な技法で描いた。この劇は5年後にロンドンでも上演され、オニールの名を世界に知らしめた。1929年にアグネスと離婚して女優のカーロッタ・モントレーと三度目の結婚をし、1932年以降は神経性の疾患を患い、肺疾患の兆候もあって、病苦と闘いながら晩年を過ごした。1936年にノーベル文学賞の受賞が決まったとき、オニールは入院中だった。アグネスとのあいだに生まれた娘ウーナは、チャールズ・チャップリンの最後の妻となった。1953年11月27日、ボストンのホテルの一室で亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- 鳥居龍蔵 (1953年没)
- アルバート・コーツ (1953年没)
- クレメント・ゴットワルト (1953年没)
- 堀辰雄 (1953年没)
- フランソワーズ・ドルレアン (1902-1953) (1953年没)
同じ地域に関係する人物
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- ウィリアム・スタイロン (2006年没)
- Dirk Jan Struik (2000年没)
- イザベラ・スチュワート・ガードナー (1924年没)
- ウィリアム・ユースティス (1825年没)