伝記
ママイは、ジョチ・ウルスの軍人・政治家で、キヤト部の出身である。生年は1320年代の半ばから後半ごろと推定され、没年は1380年とされる。現在のウクライナ南部からクリミア半島にかけての地域を支配した。チンギス・カンの血を直接引くハンではなく、ハンを擁立する実力者として、1360年代から1370年代にかけての約20年間、ジョチ・ウルスの一部あるいは大部分を左右した。ウズベク・ハンの即位に功績があったキヤト族の貴族イサタイの甥で、ベルディ・ベク・ハンの女婿と伝えられる。
1350年代の末期、ママイは、のちにクリミア・ハン国の支配領域となる地域を領有していた。ベルディ・ベク・ハンの在位中には、国家の軍事・外交・裁判を司る万人隊長(ベイレルベイ)の地位に就いた。1359年にベルディ・ベクがクルナに暗殺されると、ママイはクルナと敵対する党派に加わった。その後、ジョチ・ウルスは混乱期に入り、多くの王族がハンの地位を争い、クルナも即位から6か月たたないうちにナウルーズによって暗殺された。ママイはハンの擁立に強い影響力を持ち、ウズベク・ハンの末裔アブドゥッラーをはじめ、多くの王族をハンに立てた。ジョチ・ウルスはヴォルガ川を境に東西に分かれ、ママイはヴォルガ以西のキプチャク草原とクリミア半島を支配し、東の白帳ハン国の指導者オロスと敵対した。ママイとアブドゥッラーは一時的に首都サライを制圧し、ヒジュラ暦768年(1366年か1367年)には、アブドゥッラーの名を刻んだ貨幣がサライで鋳造された。ルーシの諸侯もママイの権威を認め、1371年にモスクワ公ドミートリーがウラジーミル大公位を得るためにママイのもとへ赴くと、ドミートリーはハンより先にママイに敬意を表した。
長い内乱のためにジョチ・ウルスはルーシへの組織的な介入の力を失い、ルーシ側もヴォルガ川沿いのモンゴル軍をしばしば攻撃した。1373年ごろ、モスクワ大公国は貢納を停止し、ママイはリトアニア大公ヨガイラ、リャザン公オレーグと同盟してモスクワの圧迫を企てた。有力な同盟者であるトヴェリ大公ミハイルをウラジーミル大公に任じようとしたが、ウラジーミル市民の抵抗とモスクワの攻撃で失敗した。1377年にモスクワはスーズダリの軍とともに、ジョチ・ウルスの臣従国ヴォルガ・ブルガールを攻め、翌1378年のヴォジャ河畔の戦いで、ママイが送った将軍ベギチの軍を破った。1380年、ママイはモスクワ討伐の軍を動員したが、9月8日のクリコヴォの戦いで、ドミートリー率いるルーシ諸侯の連合軍に敗れた。
敗戦後、モスクワは戦争の準備に多額の費用を使ったために追撃できず、ママイはドミートリーを服従させようと再戦の兵力をかき集めた。しかし、ハン国内の敵対者トクタミシュにカルカ河畔の戦いで破られ、本拠地クリミアへ退いた。ジェノヴァ人が住むカッファに逃れたが、財産を狙ったジェノヴァ人に殺害されたとされる。ヒヴァで書かれた16世紀の史料には、トクタミシュに捕らえられて殺されたとも記されている。ママイの死後、彼に従っていた遊牧民はトクタミシュに帰順し、ジョチ・ウルスが再統一される道が開かれた。イヴァン4世の母エレナ・グリンスカヤの生家グリンスキー家はママイの子孫を自称しており、それが事実なら、イヴァン4世はクリコヴォの戦いの勝者と敗者の双方の血を引くことになる。
同じ年に亡くなった人物
- マルグリット・ド・ブラバン (フランドル伯妃) (1380年没)
- Nizamuddin Ahmed Pasha (1380年)
- インカ・ロカ (1380年)
- Sarah-Theodora (1380年(推定))
- エルジュビェタ・ウォキェトクヴナ (1380年没)
同じ地域に関係する人物
- ウラジーミル・アルビツキー (1952年没)
- エフゲーニー・バウエル (1917年没)
- アレクサンドル・ハンジョンコフ (1945年没)
- ニコライ・サモキシ (1944年没)
- オスマン・アクチョクラクル (1938年没)