HISTORICAL PERSON · 1376年没

エドワード黒太子

エドワード3世の長子で、イングランドの王太子。16歳でクレシーの戦いに参加し、ポワティエの戦いでフランス王ジャン2世を捕虜にした。アキテーヌを統治したが重税で不満を招き、病のため帰国した。

生涯
1376年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / ウェストミンスター宮殿)
出生地
イギリス連邦(ウッドストック宮殿)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

エドワード黒太子は、イングランドの王太子(プリンス・オブ・ウェールズ)で、イングランド王エドワード3世とフィリッパ・オブ・エノーの長子である。1330年6月15日に、オックスフォードシャーのウッドストック宮殿で生まれたため、エドワード・オブ・ウッドストックとも呼ばれ、1376年6月8日に没した。弟にランカスター公ジョン・オブ・ゴーントらがいる。アキテーヌ公としてはエドゥアール4世にあたる。非常に優秀な軍人で、百年戦争前期の主要な戦闘に加わり、全ての戦いで最終的な勝利を収めたとされる。

1337年に父からコーンウォール公に叙爵され、イングランド最初の公爵となった。1339年に百年戦争が始まると、父の不在が多くなり、早くから形式的な代理を務めた。1343年にウェールズ公となり、これ以降、王の嗣子がその位に就くことが慣例化した。1346年のクレシーの戦いでは、16歳ながら一部隊を率いて白兵戦を経験した。以後もカレー包囲戦などに参加して勝利を収め、父が1348年に創設したガーター騎士団の一員にも選ばれた。1355年からボルドーに派遣されてアキテーヌの領土を拡大し、フランス南部の多くを支配下に入れた。1356年のポワティエの戦いでは、数で劣りながら、フランス王ジャン2世を捕虜にする大勝利を収め、イングランドの勝利を決定的にして、1360年のブレティニー条約を導いた。

1362年には割譲されたアキテーヌの公に任じられ、ボルドーの宮廷は、宴会やトーナメントで王の宮廷に匹敵する豪勢さを誇った。しかし、浪費に伴う重税と、イングランド貴族に官職を与えてアキテーヌ貴族に与えない姿勢が、住民の不満を高めていった。1367年には、カスティーリャの内戦で敗れて亡命してきたペドロ1世を支援して遠征し、ナヘラの戦いでベルトラン・デュ・ゲクランらに大勝した。しかし、この頃から赤痢に冒されて(ペストとする説もある)病気がちになり、戦後にペドロ1世と遠征費用の負担をめぐって対立した。黒太子には負債だけが残り、1369年3月にペドロ1世はモンティエルの戦いで敗死した。財政再建のため、1368年に竈ごとに課税する炉税を課したことで、住民の不満は高まった。アルマニャック伯らがフランス王シャルル5世のパリ高等法院に提訴し、黒太子に出頭が命じられると、黒太子が「好きなときに大軍を率いて出頭する」と返答したため、シャルル5世はアキテーヌ公領の没収を宣言し、1369年11月に百年戦争が再開された。

病に臥せっていた黒太子は指揮を執れず、城や都市はフランス軍に奪回された。1370年に無理を押して出陣したリモージュの包囲戦では開城させたが、住民3000人を虐殺したとされ、反発は一層強まった。1371年に本国に帰還し、その後はゲクランにより領土を奪われて、イングランドはボルドーとバイヨンヌ周辺しか保てなくなった。帰国後は、国政を牛耳っていた弟のジョン・オブ・ゴーントから実権を取り戻し、1376年4月の善良議会の開催を後押しして国政改革に着手したが、同年6月に45歳で病死した。父も翌1377年に没し、王位は息子のリチャード2世が継いだ。

1361年に、父の従妹のジョーン・オブ・ケントと結婚した。すでに2度の結婚をしていた彼女との結婚には反対が多かったが、黒太子は押し切ったという。「黒太子」の呼称は、黒い鎧を着ていたためとよくいわれるが、存命中にそう呼ばれたことはなく、後世の創作であるとの説が有力である。

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