伝記
ベネデット・クローチェは、1866年2月25日、アブルッツォ地方のペスカッセーロリに生まれた。家は裕福で影響力があり、厳格なカトリックの環境で育ったが、16歳ごろにカトリックを離れ、宗教を人間の創造力が表れる歴史的な制度にほかならないと見る、独自の精神生活の哲学を持つようになった。1883年7月28日、休暇で滞在していたイスキア島のカサミッチョラを地震が襲い、両親と妹を失った。本人も長く生き埋めになって、かろうじて助かった。生き残った弟とともにローマの親戚シルヴィオ・スパヴェンタの家に移り、サピエンツァ大学に通って、1884年にアントニオ・ラブリオーラと知り合った。1886年にはナポリへ移っている。一家の財産を相続したため、以後はナポリの邸宅で、独立した知識人として哲学に多くの時間を注ぐことができた。ナポリ大学で法学を学んだが卒業せず、史的唯物論を広く読んだ。ヴィーコの芸術と歴史に関する思想に影響を受け、1893年から哲学の研究を始め、ヴィーコが住んでいた家を買い取った。友人ジェンティーレに勧められてヘーゲルを読み、1907年にはヘーゲル論を刊行した。
1901年に出版人ラテルツァと出会い、以後の主要著作はその出版社から出た。1903年にジェンティーレとともに『クリティカ』誌を創刊し、反アカデミズム・反実証主義の立場から、精神哲学の体系を構成する著作を次々に発表した。ヘーゲルの対立の論理に代えて判別の論理を立てたところに独自性があり、主著に『表現の学および一般言語学としての美学』(1902年)、『歴史叙述の理論と歴史』(1917年)がある。「すべての歴史は現代史である」という言葉で知られる。
政治にはもともと気が進まなかったが、名声が高まるにつれて関わるようになり、1910年に終身の上院議員に任命された。第一次世界大戦へのイタリアの参戦には批判的で、自滅的な通商戦争だと見ていた。1919年にはニッティ政権を支持し、成立したばかりのワイマール共和国への称賛も表明した。1920年から21年には、ジョリッティの最後の内閣で文部大臣を務めた。ムッソリーニ政権の初代文部大臣となったのは、かつて実証主義への論争で協力したジェンティーレで、彼は在任1年ながら、クローチェの以前の提案を一部踏まえた教育改革に着手した。1923年には、国立図書館のナポリ王宮への移転にも力を尽くした。1922年に成立したムッソリーニ政権を当初は支持し、1924年にマッテオッティが暗殺されたのちも上院の信任投票で政府に賛成票を投じた。のちに、議会で支持を与えれば殺害の責任があると信じた過激なファシストの力が弱まると期待したのだと説明している。1925年ごろから反ファシズムに転じ、同年5月1日に自ら起草した『知識人の反ファシズム宣言』を発表した。以後は一貫してファシズムを批判し、政権下でも『クリティカ』誌を出し続けた。1929年のラテラノ条約には反対した。
戦後は自由党の党首を務め、制憲議会議員を経て、1948年に新しい共和国の上院議員となり、死ぬまでその職にあった。1949年から52年までは国際ペンクラブの会長を務め、ノーベル文学賞の候補に16回挙げられた。1952年11月20日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ジャン・タロー (1952年没)
- カール・ゼーフェリンク (1952年没)
- キャサリン・ソフィ・ドライア (1952年没)
- ルドルフ・スラーンスキー (1952年没)
- ルネ・グルッセ (1952年没)
同じ地域に関係する人物
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- ベネデット・コトルリ (1469年没)
- トレビゾンダ・ヴァッラ (2006年没)