HISTORICAL PERSON · 1372年没

ジョン・マンデヴィル

中東、インド、中国などの見聞を記した『東方旅行記』の著者とされる騎士。コロンブスらを刺激したが、内容は他者の記録が元で、後に空想と見なされ、経歴や存在自体も疑問視される。

生涯
1372年没
死亡地
ベルギー王国(リエージュ州 / リエージュ)
出生地
イギリス連邦(セント・オールバンズ)
出典
世界地図
ベルギー王国(リエージュ州)

伝記

ジョン・マンデヴィルは、中東、インド、中国、ジャワ島、スマトラ島の見聞を記した『東方旅行記』の著者として知られる、中世イングランドの騎士である。ただし、この名の人物の経歴や職業、存在そのものにも疑問が向けられており、旅行記に出てくる語り手の「ジョン・マンデヴィル」と、実際の著者を分けて考える見方が近年は強い。

旅行記のなかで、マンデヴィルはイングランドのセント・オールバンズの出身の騎士を名のっている。1322年か1332年の聖ミカエルの日、9月29日に、彼は遍歴の旅に出た。旅の目的は作中では明確にされておらず、エルサレムなどの聖地巡礼のためとも、傭兵としての働き場所を求めるためとも説明される。エジプトでは、ベドウィンと戦っていたスルタンに傭兵として仕えたと述べ、そこからパレスチナへ進み、絹の道をたどってインド、アジアの内陸、中国を訪れた。大ハーンの軍に15年間仕えたとも語っている。34年の不在のあと、1356年に戻ったという。帰国後は、リエージュの医者の助けを借りて旅の話を書き記した。旅行記は1357年から1371年にかけて書かれたとされる。1371年にパリで作られた最初期の写本には、1365年に「リエージュの医学教授」ジャン・ド・ブルゴーニュが著した論文が収められている。マンデヴィルは1372年11月12日か17日に亡くなったといわれ、遺体はリエージュ近郊のギレルマン教会に葬られたと伝えられる。多くの旅行家が墓碑を訪ねたが、教会はフランス革命のときに壊された。

著者の正体としては、フランドルの医師ジャン・ド・ブルゴーニュとする説がある。臨終の場に立ち会ったリエージュの公証人ジャン・ドウトレミューズは、老人の口から、イングランドである伯爵を殺して国外に逃げたことと、ジャン・ド・マンデヴィルという本名を聞かされたという。1403年に亡くなったトンゲレンの司祭ラデュルフス・ド・リヴォは、マンデヴィルを著名な医者で、3か国語の旅行記を書き、ギレルマン教会に葬られた人物と記した。リエージュのサン・ジャック教会の修道士コルネリウス・ザントフリートは、医術に長けた髭面の老人と記している。もっとも、マンデヴィルに関する記録の多くはドウトレミューズの記述に依拠しており、ドウトレミューズが「ジョン・マンデヴィル」という架空の人物を生み出したとする指摘もある。ジャイルズ・ミルトンは、エドワード2世に仕えたエセックスの貴族ジョン・マンデヴィルが著者だと推定している。

旅行記は各国語に翻訳され、250を超える写本が10の言語で作られた。エジプトの見聞は実際の旅行者に基づくという見方もあるが、内容の多くは百科事典や、プラノ・カルピニ、ウィリアム・ルブルック、オドリコらアジアを訪れた修道士の報告をもとに書かれた。ウォルター・ローリーは記述に誤りはないと述べ、コロンブスとマーティン・フロビッシャーは旅行記に刺激されて航海に出た。1625年には、サミュエル・パーチャスの書物に「ジョン・マンデヴィルによる」堕落した教会の批判が収められ、多くの著述家が引用した。地理学の知識が進むと旅行記は空想とみなされるようになり、17世紀には虚言癖の著述家として風刺劇に取り上げられた。文章力はかつてシェイクスピア以上の名文家と称賛されるほど高く評価されたが、ヴィクトリア朝時代に文学者としての評価は下がり、『ブリタニカ百科事典』第9版は著作だけでなくマンデヴィルの経歴も虚偽だと断定した。

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