伝記
エウフェミア・エリクスドッテルは、1317年に、スウェーデン王マグヌス3世の次男でセーデルマンランド公のエリク・マグヌソンと、ノルウェー王ホーコン5世の一人娘インゲビョルグの間に生まれた。母は王の唯一の嫡出の娘であったから、ノルウェーの王位は、エウフェミアとその兄弟の相続分となった。父は1318年に殺されたとされる。1319年、まだ幼い兄マグヌスが母方の祖父の跡を継いでノルウェー王となり、同じ年に、スウェーデンの貴族が伯父のスウェーデン王ビルイェルを追放して、マグヌスをスウェーデン王にも選んだ。母インゲビョルグは自領を治めるとともに、王の後見人として政治に加わり、子供たちの幼少期から思春期にかけて大きな役割を果たした。
1321年7月24日、エウフェミアの結婚契約が、ブーヒュースレーンにある母の領地のブーヒュース城で調印された。母は、自分の公領の隣にあるデンマークのスコーネを支配する計画を立てていた。この結婚は、メクレンブルク、ザクセン、ホルシュタイン、レンツブルク、シュレースヴィヒがスコーネの征服を助けるという条件で取り決められ、ノルウェーの評議会には承認されたが、スウェーデンでは承認されなかった。1322年から1323年にかけて、母の軍がクヌート・ポルセの指揮でスコーネに侵攻すると、メクレンブルクは母を裏切り、同盟は破れた。この結婚の件は、母とスウェーデン、ノルウェー両政府との対立を招き、母の政治的な地位は崩れた。それでもエウフェミアはスウェーデンで影響力を保ち、いくつかの文書で証人となっている。1335年に兄マグヌスがニルス・アブヨルンソンを執事長に任じたときには、エウフェミアが彼の助言者を務めることが任命の条件に含められた。
1336年4月10日、15年に及ぶ婚約の末に、エウフェミアはロストックで、遠縁にあたるメクレンブルク公アルブレヒト2世と結婚した。アルブレヒトは、スカンジナビアで何らかの権力を得ることに深い関心を持つ北ドイツの領主であった。同じ年、夫妻はザクセン選帝侯ルドルフ1世やホルシュタイン=レンツブルク伯ハインリヒ2世とともにスウェーデンに戻り、兄とその妃ブランカ・アヴ・ナムールの戴冠式に出席した。ドイツでの公妃の暮らしが、スウェーデンでの地位に影響することはなかったようである。エウフェミアは、非常に金のかかるメクレンブルク公の宮廷の女主人であった。1340年から1341年には、ノルウェーでの交易の特権を、ハンザ同盟都市のロストックとヴィスマールなどに与えるよう、兄マグヌスを説得した。1350年に異父弟のホーコンとクヌートが亡くなると、1357年4月15日、エウフェミアはスケンニンゲ修道院に自領のハンマルとファースセスを寄進した。
エウフェミアが最後に生存を確認されるのは、1363年10月27日、メクレンブルクにある自身の寡婦財産の所有権を放棄したときである。死亡の年は不明だが、1370年6月16日にはすでに亡くなっていたことが確認されている。次男アルブレヒト3世が、兄マグヌスをスウェーデン王位から追って、1364年にスウェーデン王アルブレクトとして即位するまで、存命だったともいう。死去したとき、5人の子が生きていた。ハインリヒ3世、アルブレヒト3世、インゲボルク、アンナ、マグヌス1世である。夫アルブレヒト2世は、エウフェミアの死後に再婚したが、嫡出の子はすべてエウフェミアとの間にもうけている。
同じ年に亡くなった人物
- カジミェシュ3世 (ポーランド王) (1370年没)
- ジョヴァンニ・ダ・ミラノ (1370年)
- 奇皇后 (1370年(推定))
- グアリエント・ディ・アルポ (1370年)
- ウルバヌス5世 (ローマ教皇) (1370年没)
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