伝記
チャールズ・ゲーツ・ドーズは1865年8月27日、オハイオ州ワシントン郡のマリエッタに生まれたアメリカ合衆国の政治家・銀行家である。父は南北戦争で将軍を務めたルーファス・ドーズで、母はメアリー・ビーマン・ゲーツ。父は1863年から翌年にかけて、アイアン・ブリゲードに属する第6ウィスコンシン連隊を率いた。叔父のエフライム・ドーズも北軍の少佐で、グラントの下でシャイローやヴィックスバーグ包囲戦に従軍し、1864年5月のダラスの戦いで重傷を負った。兄弟には実業家や政治家として知られた者が多く、先祖にはメイフラワー号の乗客エドワード・ドーティや、ポール・リビアとともに英軍の接近を知らせて馬を駆ったウィリアム・ドーズがいたとされる。
1884年にマリエッタ大学を、1886年にシンシナティ法律学校を卒業し、ネブラスカ州リンカーンで1887年から1894年まで弁護士として働いた。1889年1月にキャロ・ブライマーと結婚している。リンカーンでは、ネブラスカ大学で軍事教官を務めていた中尉ジョン・パーシング、のちの陸軍の将軍と知り合い、生涯の友情を結んだ。パーシングも同地で法律を修めており、軍を辞めて共同で事務所を開こうと持ちかけたとき、ドーズは安定した俸給を捨てないよう忠告したという。民主党の下院議員ウィリアム・ジェニングス・ブライアンとも、自由銀貨をめぐる意見の違いを越えて親しくなった。1893年の恐慌のさなかにシカゴへ移り、翌1894年に中西部のガス会社の株を取得して、ウィスコンシン州のラクロス・ガス灯会社やイリノイ州の会社の社長になった。1896年のマッキンリーの大統領選ではイリノイ州の選挙運動を取り仕切り、当選後は1898年から1901年まで財務省の通貨監査長官を務めた。1902年には上院選挙に出馬したが落選している。
第一次世界大戦では陸軍に少佐として入り、中佐、さらに准将へ昇進して、アメリカ遠征軍の供給調達部長などを務めた。1919年に退役すると、1921年にはハーディング大統領に任命されて、新設された予算事務局の初代局長となった。1923年には連合国の賠償委員会の委員となり、ドイツ経済を立て直して安定させるための計画、いわゆるドーズ案の作成に力を尽くした。この功績により、1925年にノーベル平和賞を共同で受けている。
1924年の大統領選挙では、共和党のクーリッジが指名されたあと、前イリノイ州知事フランク・ローデンが副大統領候補を辞退したため、党大会がドーズを副大統領候補に選んだ。選挙に勝って1925年3月4日から1929年3月3日まで第30代副大統領を務めた。農民救済のためのマクナリー=ハウゲン法案の成立に尽力したが、クーリッジは拒否権を行使した。1928年の党大会でも指名を目指したものの、クーリッジの反対もあって、チャールズ・カーティスが選ばれた。
1929年にフーヴァー大統領から駐英大使に任命され、さらに復興金融公社を短期間率い、大恐慌への政府の対応を組織した。1932年に銀行業へ戻り、シカゴのシティ・ナショナル銀行の取締役会長を亡くなるまで務めた。1951年4月23日、イリノイ州エヴァンストンで冠動脈血栓症により死去し、シカゴのローズヒル墓地に葬られた。独学でピアノやフルートをこなす作曲家でもあり、1912年の「イ長調のメロディ」は、1951年にカール・シグマンが歌詞を付けて「恋のゲーム」となった。1958年にトミー・エドワーズが歌って全米一位になり、のちに多くの歌手が録音している。
同じ年に亡くなった人物
- 貞明皇后 (1951年没)
- フリッツ・ティッセン (1951年没)
- シモン・バレル (1951年没)
- フランソワ・ジョルジュ=ピコ (1951年没)
- 林芙美子 (1951年没)
同じ地域に関係する人物
- リトル・ウォルター (1968年没)
- ウィリアム・オルスウェイン (1955年没)
- フランシス・グレスナー・リー (1962年没)
- フランク・フォス (1989年没)
- ジョセフ・バーナーディン (1996年没)