伝記
ボグダン1世は、14世紀のモルダヴィア公で、モルダヴィアで最初の独立した君主となった人物である。「創設者ボグダン」とも呼ばれ、ボグダン朝モルダヴィア公国の創始者とされる。1307年に生まれ、1367年に亡くなった。もとは、ハンガリー王国のマラムレシュ地方でヴラフ人の指導者であるヴォエヴォドを務めていた。
その生い立ちについては研究者のあいだで議論がある。一つの説によれば、ボグダンはマラムレシュの土着のヴラフ人の家の出で、先祖伝来の領地はクヘアを中心とする「谷の小公領」を成していた。別の説は、1334年から1335年に、ハンガリー王カーロイ1世がカロチャ大司教ラースロー・ヤーンキをドナウ河畔のクリスラへ3度送り、ミコラの子ボグダンが「自らの国」からハンガリー王国へ移る準備をさせたという1335年10月6日付の勅許状の人物と、同一人物だと考える。歴史家のパール・エンゲルは、このときヴォエヴォドのボグダンがセルビアから大勢のヴラフ人を率いてハンガリーに来たとする。一方、歴史家ヴィクトル・スピネイは、名前が似ているだけでは同一人物とは決められないと強調する。クヘアでは教会と館の遺構が発掘され、教会は聖イシュトヴァーン王にささげられたカトリックの教会だったことから、ボグダンの一族が改宗したか、もとのカトリック教会が正教の一族のために使われたことがうかがえる。
1342年7月にラヨシュ1世が即位したとき、ボグダンはすでにマラムレシュのヴォエヴォドだった。ところが1343年10月21日の勅許状は、彼を「マラムレシュの前ヴォエヴォドで我らに不忠」と呼んでおり、彼が王または王の代理人と対立して地位を失ったことを示す。原因は分かっていないが、王がヴォエヴォドの特権を制限しようとしたことが背景にあるとする説や、ボグダンが長年にわたって主君に反乱を起こしたとする説がある。罷免後もボグダンはマラムレシュにとどまり、1349年9月15日の勅許状で、王は彼を「我らの根深い不忠の臣」と呼んだ。それによれば、ボグダンはヴラフ人のクネズ、ジュレシュティのジュラとその6人の息子を仲間に誘ったが断られたため、甥のシュテファンとともに彼らの領地に侵入して追い出した。王は、シュテファンの兄弟でボグダンの甥にあたるマラムレシュのヴォエヴォド、ヨハンに、領地を戻すよう命じた。ボグダンがマラムレシュにいたことが最後に記録されたのは1353年5月14日で、この日、エゲルの司教座聖堂参事会が、ボグダンの2人の甥の領地の境界を定めている。
その後、ボグダンの一行はマラムレシュを離れて東隣のモルダヴィアに移った。時期は1359年から1365年のあいだとされる。当時のモルダヴィアは、対タタール戦に功のあったドラゴシュ家が統治していたが、そのハンガリーへの依存に有力者たちの不満が高まっていた。そこで彼らはボグダンをヴォエヴォドに選び、ハンガリーからの独立運動を始めた。ボグダンはドラゴシュの孫バルシュを追放して王座に就いた。ラヨシュ1世は、ヴェネツィアとの抗争や、ステファン・ドゥシャンの死後のセルビア情勢のために、この反乱を鎮圧できなかった。1359年にモルダヴィア公国の独立が達成されたとされる。1365年には、王がマラムレシュのボグダンの領地を没収し、これをバルシュに与えた。ボグダンはラヨシュ1世の宗主権を認めず、モルダヴィアを、2番目の独立したルーマニア人の公国とした。
1367年にボグダンが亡くなると、公位は息子のペトル1世が継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- ジル・デ・アルボルノス (1367年没)
- ペドロ1世 (ポルトガル王) (1367年没)
- 足利義詮 (1367年没)
同じ地域に関係する人物
- シュテファン3世 (モルドヴァ公) (1504年没)
- アレクサンドル1世 (モルダヴィア公) (1432年没)