伝記
エドワード・ベイリャルは、1282年ごろに生まれ、スコットランド独立戦争の時代にスコットランド王を名のった人物である。スコットランド王となったジョン・ベイリャルの長子で、母はサリー伯ジョン・ド・ワーレンの娘イザベルである。1296年に父ジョンが王位を追われると、エドワードは父とともにロンドン塔に幽閉され、1299年まで過ごした。釈放後、父はフランスのピカルディにある所領に隠遁したが、エドワードはイングランドにとどまり、外祖父であるサリー伯ジョン・ド・ワーレンのもとで暮らした。
1306年にロバート・ブルースがロバート1世として即位すると、スコットランドにおけるベイリャル家の王位は否定され、所領も没収された。1314年にエドワード2世率いるイングランド軍が侵攻したが、バノックバーンの戦いで大敗し、ロバート1世の王位は確定した。ところが1329年にロバート1世が亡くなり、わずか5歳のデイヴィッド2世が王位を継ぐと、所領を失っていたベイリャル派の貴族たちは、イングランド王エドワード3世の支援を得て、1332年8月にエドワードを担いでスコットランドに侵攻した。ベイリャル派はブルース派の国王軍をダプリン・ムーアの戦いで破り、エドワードはスクーンでスコットランド王として戴冠した。
しかし彼は支援の見返りとして、南部の諸州をイングランドに割譲した。このためスコットランド人の多くは彼をイングランド王の傀儡と見なして支持せず、実効支配できたのはわずかに本領だけで、きわめて不安定な立場に置かれた。1332年12月、アナンに滞在中にアーチボルド・ダグラスの反乱軍に急襲されると、ベイリャル軍は四散し、眠っていたエドワードは裸でイングランドに逃げたといわれる。翌1333年、エドワード3世がスコットランドに侵攻し、ハリダン・ヒルの戦いでスコットランド軍を破って、再びエドワードを王位に戻した。それでも実効支配が及んだのはスコットランド南部と、各地の王の支配下にある城に限られた。1334年にブルース派が勢いづくと、エドワードは耐えられず再びイングランドに逃亡した。1335年からはエドワード3世が毎年スコットランドに侵攻したが、ブルース派は戦いを避け、エドワード3世が引き返すと再び抵抗を始める状態が続き、彼の王権はまったく確立できなかった。
1337年に百年戦争が始まると、エドワード3世の関心はフランスに集中し、エドワードはスコットランドで孤立した。1341年にデイヴィッド2世がフランスの支援を受けて帰国し、1346年10月のネヴィルズ・クロスの戦いでイングランド軍に大敗して囚われの身となった。エドワードがこの戦いに参加したのかは不明で、参加していたとしても重要な役割は果たしておらず、このころには利用価値を失っていたと見られている。1350年代に入ると、デイヴィッド2世が囚われているにもかかわらず、彼の王権が確立できないことは明らかになった。1356年にエドワードは退位し、エドワード3世に王位と所領を譲ったが、すでに実質的な意味は失われていた。以後は年金を受け、ヨークシャーで隠遁生活を送り、1364年に亡くなった。結婚はせず、ベイリャル家は断絶した。
同じ年に亡くなった人物
- シャルル・ド・ブロワ (1364年没)
- Sinanuddin Fakih Yusuf Pasha (1364年)
- アリゼンダ・デ・ムンカーダ (1364年没)
- ロベルト (ターラント公) (1364年没)
- 光厳天皇 (1364年没)
同じ地域に関係する人物
- ビリー・ブレムナー (サッカー選手) (1997年没)