HISTORICAL PERSON · 1363年没

トゥグルク・ティムール

モグーリスタン・ハン国のハン。西チャガタイ・ハン国を征服し一時的に東西チャガタイを再統一したが、まもなく支配を失った。最初にイスラームに改宗したハンとして知られる。

生涯
1363年没
死亡地
モグーリスタン・ハン国
出生地
中華人民共和国(ジャンブール州 / イリ川)
出典
世界地図
中華人民共和国(ジャンブール州)

伝記

トゥグルク・ティムールは、チャガタイ・ハン国の分裂後に成立したモグーリスタン・ハン国のハンで、在位は1347年または1348年から1363年までである。14世紀半ばに東西に分かれたチャガタイ・ハン国を、一時的にもう一度まとめたハンとして知られる。出自には異説があり、ドゥアの子エミル・ホージャの落胤と考えられているが、イセン・ブカの子とも伝わる。

1346年にチャガタイ家のカザンが殺されると、西のマー・ワラー・アンナフルでは、カラウナス系のアミールたちが実権を握り、チンギス・ハーンの子孫を名目だけの王に立てた。一方、モンゴル人が多く仏教とシャーマニズムの信仰が残る東側は、すでにほぼ自立していた。東側で最も力をもっていたのがドゥグラト部のアミールの家で、カシュガルやヤルカンドなどの町を領していた。そのブラジが、1347年ごろに自分の選んだハンを立てようとして白羽の矢を立てたのが、そのころは冒険者同然だったトゥグルク・ティムールである。

トゥグルク・ティムールは、東チャガタイ・ハン国のハンとして最初にイスラームに改宗した人物である。伝承によれば、スーフィーのジャマール・アル=ディーンと、即位したら改宗すると約束し、即位後に約束どおり、その子アルシャド・アル=ディーンの導きで改宗した。別の伝承は、ハンの猟場に迷い込んだジャマール・アル=ディーンが、ハンに問われて「真の信仰」を説明したことが改宗のきっかけだったとも伝える。アルシャド・アル=ディーンが奇蹟を示したので、モンゴル人は畏敬の念を抱き、16万人のモンゴル人がハンとともに改宗したという。ただし、すぐにモグーリスタンがイスラーム国家になったわけではない。東トルキスタンの仏教徒社会に急な変化はなく、仏教寺院は免税の特権を与えられ、宮廷ではモンゴル語が公用語の地位を保っていた。

1359年に有力者アブドゥッラーフが暗殺されると、西チャガタイ・ハン国は各地に部族の長が割拠する状態になった。1360年、トゥグルク・ティムールはタシケントから西トルキスタンに軍を送り、バルラス部のハージーらに勝った。降伏した貴族のなかにはハージーの甥ティムールがおり、ハンは彼にキシュを領地として与えた。モグーリスタン軍が帰国するとハージーが反旗を掲げたため、1361年の3月から4月の間に、ハンは自ら西トルキスタンに攻め入った。アム川を越えてヒンドゥークシュに至り、スルドゥス部のバヤン、ヤサウリー部のヒズルら敵対者を捕らえて処刑した。ハージーが暗殺されたのちにバルラス部の指導者となったティムールも、ハンの主権を認めた。ハンは1362年に子のイリヤース・ホージャを西トルキスタンの統治者に任命してモグーリスタンへ帰り、東西のチャガタイ・ハン国は一時的に統一された。

しかし、イリヤース・ホージャの補佐役だったティムールや、アブドゥッラーフの甥フサインらは、モグーリスタンの支配を拒んで反乱を起こした。1362年にモグーリスタン軍はティムールを破ったが、その後に勢力を盛り返したティムールによって、1363年に西トルキスタンはハンの支配を離れた。このころ、ハンはチベット僧ロルペー・ドルジェを招いたが、僧は距離が遠いことなどを理由に丁重に断ったという。同じ1363年にトゥグルク・ティムールも世を去った。遺体はアルマリクに葬られ、墓所の霊廟は霍城県(コルガス市)に今も残っている。

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