伝記
カール・レンナーは、1870年12月14日、当時オーストリア・ハンガリー二重帝国領だった南部メーレンのウンター・タノヴィッツ(現在のチェコ領ドルニー・ドゥナヨフツェ)に、小さなブドウ農家の18番目の子として生まれたオーストリアの政治家である。農業危機で家は破産して生活が苦しくなったが、父が彼の才能に気づき、20歳でウィーン大学へ進学できた。大学では法律を学びながら、ヴィクトル・アドラーの指導下で社会主義運動に関わった。卒業した1895年には、この年に結成されたネイチャーフレンドの創設会員の一人としてそのロゴを考案し、さらにオーストリア国会図書館の研究助手となり、民法や法制史、帝国内の民族問題について著作を発表した。のちにオットー・バウアーらとともに「オーストロ・マルクス主義者」と呼ばれる潮流を形成する。民族問題では、ハプスブルク君主国の中央集権的な体制では諸民族の不満を抑えられないと論じ、個人が「地域」と「民族」の二つの共同体に属する連邦国家「ドナウ連邦」の構想を唱えた。公務員の立場にあったため、この論文は「ルドルフ・シュプリンガー」の偽名で書かれた。
1907年、オーストリア初の普通選挙で社会民主党の候補として初当選し、消費者協同組合運動にも参加して、1911年にその全国委員長となった。第一次世界大戦で当初は参戦を支持したが、のちに翻意した。1918年に二重帝国が崩壊すると、実務に長けた彼が共和国の初代首相に就いた。翌年の講和条約で連合国から「ドイツとの合併禁止」を約束させられ、外相バウアーはこれに反発して辞表を出したが、レンナーは不満を抱きつつも固執せず、労働・福祉立法の充実に努め、キリスト教社会党との連立を協調的に運営した。1920年には新憲法を制定して議会制民主主義の確立に尽力した。しかし党内ではバウアーら左派との対立を克服できず、同年10月の選挙でキリスト教社会党が第一党になると、政治の一線から退いた。
1931年に国民議会議長となったが、1933年3月に辞表を出すと、首相ドルフースは議会の停止を命じた。1934年2月に内乱が起こると社会民主党は禁止され、レンナーも100日間投獄された。ナチス・ドイツによる併合の際には、政治路線を批判しつつドイツとの併合を容認する見解を発表し、内外から疑惑を招いた。
1945年4月、ソ連軍の占領下にあったグログニッツに住んでいた彼は、ソ連に新政権の樹立を要請された。スターリンは彼の生存を知って「あの年取った裏切り者はまだ生きていたのか。彼こそ我々が必要とする人物だ」と叫んだと言われる。4月27日に臨時内閣が発足し、2日後に独立を宣言した。西側諸国は傀儡政権として承認しなかったが、9月24日にはウィーンで諸州会議を開き、議長として粘り強く交渉して本格的な政府樹立の合意を得た。10月24日に連合国は彼を政府の代表者と認め、11月25日の総選挙は、アメリカの支援も得て実施された。結果は国民党が僅差で社会党を抑えて第一党となり、共産党は予想以上の大敗を喫した。首相には国民党のレオポルド・フィグルが就いた。その後、初代大統領を務めて東西分割を避けたことから「祖国の父」と称され、1950年12月31日に没した。
同じ年に亡くなった人物
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- チェーザレ・パヴェーゼ (1950年没)
- エミール・アブデルハルデン (1950年没)
- ジョン・トマス・オニール (ラグビー選手) (1950年没)
- アントニオ・マリア・ダ・シルヴァ (1950年没)
同じ地域に関係する人物
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- レオポルト・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト=コハーリ (1884年没)
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