HISTORICAL PERSON · 1950年没

アルベール・ルブラン

フランスの政治家で、第三共和制の第15代大統領。鉱山技師から政界に転じ、植民相や陸相、元老院議長などを務めた。

生涯
1950年没
死亡地
フランス共和国(パリ / 16区)
出生地
フランス共和国(Mercy-le-Haut)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

アルベール・ルブランは、1871年8月29日、ロレーヌ地方のメルシー=ル=オートの農家に生まれたフランスの政治家で、第三共和制の最後の大統領である。父エルネスト・ニコラ・ルブランは農民で、1881年から亡くなるまで村長を務めた。母はアンヌ・マリー・ナヴェルで、姉リディと弟ガブリエルがいた。学校がまだ普及していない時代に、両親はともに読み書きの素養を備えていた。生まれた村は普仏戦争の敗北の直後でプロイセン軍に占領されており、9日後にはムルト=エ=モゼル県に編入され、ドイツへの割譲を辛くも免れた。小学校では成績優秀で、11歳のとき郡で最高の平均点を取った。両親は長男に農場を継がせたかったが、教師の勧めで進学を認め、農場は弟が継いだ。1883年からナンシーの国立高等中学校で学び、1889年にバカロレアに合格した。この学校には、先にユベール・リョーテやモーリス・バレスも学んでいた。ルブランは飛び級で入学し、とくに理科系の科目と歴史で優秀だった。理工科学校の入試には、入学順位はほぼ最下位で合格したとされる。

エコール・ポリテクニークとパリ国立高等鉱業学校を、それぞれ優秀な成績で卒業し、ヴズールとナンシーで約5年間、鉱山技師として働いた。政治の経歴は1898年に県会議員に選ばれたことに始まる。しかし政治への関心を抑えきれず、1900年、29歳のときに鉱山技師を辞して総選挙に立候補し、当選した。共和派の穏健な立場から出発し、のちに民主同盟に加わって右寄りに進んだ。植民相や陸相を務め、第一次世界大戦期には解放地域相も務めたとされる。ジョルジュ・クレマンソー、のちにレイモン・ポアンカレに近く、1920年に元老院議員となって、上院で最も影響力のある議員の一人になったとされる。元老院では1925年から1929年まで副議長を経て、1931年に議長に選ばれた。

1932年、ポール・ドゥメールが暗殺されると、後継の大統領に選ばれた。最初の任期は政権の交代が相次ぐ不安定な時期で、国民連合内閣を組織させる事態も起こり、人民戦線とレオン・ブルムの政権獲得も止められなかった。1932年に客船ノルマンディー号の進水式、1935年に就航式、1937年にはパリ万国博覧会の開会式に臨んだ。1939年に再選され、これは1885年のジュール・グレヴィ以来、第三共和制では初めてのことであった。しかしヒトラーの台頭で国際情勢は緊迫し、大統領が手腕を発揮できる状況ではなかった。

1940年にフランスがドイツに降伏すると、ペタン元帥が首相となって休戦協定に署名し、ヴィシー政権が成立した。ルブランは北アフリカでの抗戦継続を望んでいたとされ、大統領職を正式には辞任しなかった。7月15日にグルノーブル近郊のヴィジルへ避難したが、1943年8月27日にドイツ軍に拘束されてチロルに移送され、10月10日に健康悪化を理由にヴィジルへ戻ったのちも軟禁状態に置かれた。1944年8月9日、連合国の攻勢で解放されると、シャルル・ド・ゴールと会見して大統領を正式に辞した。以後は政界を引退してパリに隠棲し、1950年3月6日、肺炎のためパリで死去した。

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