HISTORICAL PERSON · 1950年没

レオン・ブルム

フランスの社会党の政治家。3度首相を務め、とくに1936年に成立した人民戦線内閣の首班として知られる。ユダヤ系で、ホロコースト生還者でもある。

生涯
1950年没
死亡地
フランス共和国(イヴリーヌ県 / ジュイ=アン=ジョザス)
出生地
フランス共和国(サン=ドニ通り)
出典
世界地図
フランス共和国(イヴリーヌ県)

伝記

レオン・ブルムは、1872年4月9日にパリのユダヤ系中流家庭に生まれたフランスの政治家である。父アブラハムは商人で、アルザスの出身だった。共和主義への思い入れが強い家で、少年時代にはガンベッタやヴィクトル・ユゴーの国葬に足を運んだ。若いときから政治家を志していたわけではなく、関心はむしろ文学にあった。ソルボンヌ大学で文学と法学を修め、17歳でアンドレ・ジッドと知り合って文芸誌を作り、詩を載せた。1892年からは名高い『ルヴュ・ブランシュ』に批評を寄せて頭角を現した。1895年には国家参事会に入り、法律家として長く勤めるかたわら、文芸批評と演劇批評でも活躍した。ブルムは自分をユダヤ人であり同時にフランス人だと感じており、のちに反ユダヤ主義の攻撃を受けるたびに、ユダヤ人としての自覚を主張した。

政治への道を開いたのは、1894年に起きたドレフュス事件である。普仏戦争の敗北後に高まった排他的な民族主義の実態を目の当たりにして社会情勢を憂え、ドレフュス派の知識人たちの調整役を務めた。この過程で社会主義者のジャン・ジョレスと知り合い、深く尊敬するようになった。1905年に統一社会党が成立すると加わり、党屈指の論客となった。1914年にジョレスが右翼に暗殺されると党内でより主導的な役割を担い、1914年から1916年頃にかけては公共事業相マルセル・サンバの官房長を務めた。1919年にパリから下院議員に当選し、1920年末のトゥール党大会で党が分裂して共産党が結成された際も、社会党にとどまった。以後、党の指導者と目されるようになる。1928年の総選挙でパリの議席を共産党のジャック・デュクロに奪われたが、翌年の補欠選挙でオード県ナルボンヌから当選して返り咲き、1940年に第三共和政が崩壊するまで下院議員を務めた。

1933年のヒトラー政権成立や1934年2月6日の右翼の騒擾を受けて、社会党と共産党の連携が実現した。1936年の総選挙で、社会党・共産党・急進社会党などの人民戦線が勝利し、社会党は147議席で第一党となった。6月4日、ブルムを首班とする人民戦線内閣が成立した。内閣は世界恐慌後の不況対策に取り組み、週40時間労働制や、2週間の有給休暇などの労働政策を進め、フランの切り下げや公共事業、国防の強化も行った。これらは「ブルムの実験」とも呼ばれた。反共・反ユダヤを掲げる団体のいくつかも解散させた。しかし物価高や金の流出などの問題があり、スペイン内戦への対応をめぐって急進社会党と共産党が対立し、労働政策は急進社会党の離反を招いて、ブルムは退陣に追い込まれた。1938年に再び首相となったが、1か月とたたずに内閣は崩壊した。

第二次世界大戦でフランスが敗れても、ブルムは亡命しなかった。1940年7月10日、ヴィシーでペタン元帥への全権委任が採決された際には、反対票を投じた80名の議員の一人となった。ヴィシー政府に「フランスを弱体化させた」罪で逮捕され、1942年初めのリオンの特別法廷では、ダラディエらとともに裁判の不当性を訴えて裁判を中断に追い込んだ。1943年にドイツへ送られ、ブーヘンヴァルト、ダッハウ、ティロルの収容所に入れられた。弟ルネ・ブルムは、アウシュヴィッツに送られて間もなく処刑された。連合国軍によって救出され、収容所で著したエッセイ『人間としての尺度』(邦題『人間から人間へ』)が代表作となった。戦後は1946年から47年に再び首相を務め、第四共和政の成立に貢献した。1950年3月30日に没した。

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