伝記
ヴァッラブバーイー・パテールは、1875年10月31日にグジャラート地方のナディアードで生まれたインドの政治家・弁護士である。「サルダール」(首領、指導者の意)の称号で呼ばれた。六人きょうだいの一人で、生年月日は公式には記録されておらず、10月31日は本人が大学入学資格試験の書類に書いた日付だという。出身は中部グジャラートのレーヴァー・パテール系のパティダール共同体とされる。ナディアード、ペトラード、ボルサドの学校に通い、ほかの少年たちと自活しながら学んだ。禁欲的な気質を養ったといい、痛む腫れ物を理髪師が手を震わせる中で自ら切開したという逸話が伝わる。入学資格試験に受かったのは22歳と遅く、周囲は大成しない人物とみなしたが、本人は弁護士になって資金を蓄え、イギリスへ渡る計画を温めていた。
借りた法律書で独学して2年で試験に合格し、妻ジャヴェルバーを連れてゴードラーに居を構えて弁護士となった。法廷では手ごわく腕の立つ弁護士として名を高め、1903年に長女マニベン、1905年に長男ダヤバーイーが生まれた。ペストが流行した際には患った友人を看病し、自身も感染すると家族を安全な場所へ移して、人里離れた家で療養したと伝わる。イギリス行きの旅券と乗船券を用意したところ、宛名の頭文字が同じ兄のヴィッタルバーイーに届き、兄が「兄が弟の後に続くのは恥だ」と諫めたため、家の名誉を考えて兄に譲った。1909年、妻は大手術のため入院先のボンベイで急死した。パテールは法廷で証人を尋問している最中にその知らせを受け取り、紙片をポケットにしまって尋問を続け、裁判に勝ったあとで初めて周囲に伝えたとされる。以後、再婚はしなかった。36歳でイギリスへ渡り、ロンドンのミドル・テンプルで36か月の課程を30か月で修めて、首位級の成績で終えた。帰国後はアフマダーバードに居を定めた。
その後は国民会議の有力な指導者となった。ガンディーと同じく、当初は独立よりも英連邦内の自治領の地位を支持していた。武力闘争には、道徳上の理由よりも実際的な理由から反対したという。国民会議の中では最右翼に属し、ヒンドゥー教に傾いていたとされ、独立以前からヒンドゥー至上主義団体の民族義勇団とつながりがあったともいわれる。1947年8月のインド独立後は、ネルー首相のもとで初代副首相兼内務大臣を務め、印パ分離独立の混乱の中で、多くの藩王国をインドに帰属させた。ハイデラバードとジュナーガドは軍事的な併合となったが、大半は平和裏に統合されたと記憶されている。その手腕から「インドの鉄の男」「インドのビスマルク」と呼ばれた。
1950年12月15日、ボンベイで没した。ガンディーやネルーに比べると国内外での知名度は高くないが、2014年の総選挙でヒンドゥトヴァを掲げるインド人民党が政権を握って以降、評価が高まりつつある。2018年10月には、モディ首相の地元グジャラート州に高さ182メートルの「統一の像」が完成し、完成時は世界最大の像となった。総工費は299億ルピー(約470億円)とされる。アフマダーバードの国際空港にも、その名が冠されている。
同じ年に亡くなった人物
- アントニオ・マリア・ダ・シルヴァ (1950年没)
- ヴァルター・オイケン (1950年没)
- アルフレッド・コージブスキー (1950年没)
- シャルル・ケクラン (1950年没)
- Robert Hunter (1950年没)
同じ地域に関係する人物
- ビマル・ロイ (1966年没)
- アチャラ・サチデヴ (2012年没)
- ムルク・ラジ・アナンド (2004年没)
- A・K・ハンガル (2012年没)
- アラ・ラカ (2000年没)