HISTORICAL PERSON · 1950年没

ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング

カナダの政治家で、第12・14・16代首相。自由党所属で、3期合計21年にわたり首相を務め、この在任期間は英連邦の歴史上で最長記録とされる。

生涯
1950年没
死亡地
カナダ(ケベック州 / The Farm)
出生地
カナダ(キッチナー)
出典
世界地図
カナダ(ケベック州)

伝記

ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キングは、1874年12月17日にオンタリオ州バーリン(現在のキッチナー)で生まれたカナダの政治家である。父ジョンは弁護士で、のちにオスグッドホール法科大学院の講師も務めた。母方の祖父は、トロント初代市長で1837年の上カナダの反乱の指導者でもあったウィリアム・リヨン・マッケンジーである。少年の頃から「自立できない人々を助ける」ことをモットーとし、人間の生活環境に関心を寄せていた。トロント大学で3つの学位を得て、オスグッドホール法科大学院で法学士号を取得し、さらにハーバード大学で博士号を取った。博士号を持つ首相は、カナダでは彼が唯一とされる。

1900年に新設された労働省の次官となり、1908年に下院議員に当選、翌1909年にはローリエ首相の下で初代の連邦労働大臣に就いた。1911年の総選挙で議席を失うと、ロックフェラー財団に勤め、短期間は産業コンサルタントとしても働いた。1919年にローリエが没すると自由党の党首に選ばれ、1917年の徴兵問題で分裂していた党内の賛成派と反対派をまとめあげ、1921年の総選挙で勝利して首相に就任した。

最初の政権では戦時の税や関税を引き下げ、カナダの自律を強める方針をとった。チャナク危機では議会の同意なしにイギリスを支援することを拒み、アメリカとのオヒョウ条約もイギリスの介入なしに結んだ。1926年には下院の採決で内閣が退陣に追い込まれかねない状況となり、総督ビング卿に議会の解散を求めたが断られ、保守党が組閣を命じられた。その保守党政権が不信任決議で倒れ、この一連の経過は大きな憲法上の危機となったが、続く選挙で自由党が勝利した。のちに資力調査に基づく老齢年金を導入したものの、大恐慌への対応の遅れから1930年の選挙で敗れた。

1935年の総選挙で自由党は地滑り的に勝利し、政権に復帰した。アメリカとの互恵通商協定を結び、カナダ銀行を国有化し、1938年には住宅法を成立させた。カナダ放送協会、トランスカナダ航空、国立映画制作庁もその政権下で設けられた。1939年に第二次世界大戦が始まると数日のうちにカナダ軍を派遣し、1940年の選挙でも大勝して戦時の政権を率いた。アメリカとはオグデンズバーグ協定を結んで、常設共同防衛委員会を設けている。国内では日系カナダ人の強制収容を進め、海外への徴兵の導入はフランス系住民に配慮して1944年末まで遅らせた。失業保険や、初の普遍的な福祉制度となる家族手当も導入した。

戦後は国際連合への加盟、冷戦下での西側諸国との連携、カナダ市民権の導入、ニューファンドランドの連邦加入の交渉などを手がけ、1948年11月に引退して、1950年7月22日に肺炎で亡くなった。通算の首相在任は3期で約21年に及び、イギリス連邦の歴史でも最長とされる。評伝は、カリスマや演説力に乏しく、人間関係は冷徹で、生涯独身で親友もいなかったと伝える。一方で、心霊術への傾倒を隠し、死んだ母らと交信する霊媒を用い、その信仰がヒトラーへの理解を歪めたともいわれる。歴史家は人物への賛辞こそ少ないが、政治手腕とカナダの統一への配慮を高く評価している。現在、50カナダドル紙幣にはその肖像が印刷されている。

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