伝記
トクトは、モンゴル人の王朝である元の権臣である。字は大用で、『元史』などでは脱脱と記される。1314年、メルキト部の出身であるマジャルタイの長男として生まれた。幼いころに伯父のバヤンの養子となり、呉直方に学んだ。1328年、15歳で皇太子アリギバのケシクとダルガチに任じられた。翌1329年には文宗トク・テムルに拝謁して気に入られ、内宰司丞を加えられ、同じ年のうちに府正司丞に任じられた。1338年には御史大夫となった。
そのころ、伯父のバヤンは専横を極めていた。トクトは父のマジャルタイや師の呉直方と相談したうえで、バヤンを疎ましく思っていたカアンの恵宗トゴン・テムルと結び、1340年にクーデターを起こした。バヤンが狩りに出ている間に宮城の門を閉ざして入れず、やがて捕らえたと伝えられ、バヤンは追放された。同じ年のうちに、バヤンが廃していた科挙を復活させた。翌1341年には父が中書右丞相となったが、実権は知枢密院事となったトクトが握った。10月に父が職を辞し、トクトが中書右丞相となった。1343年3月には遼・金・宋三史編纂の都総裁官に任じられ、1344年に『金史』と『遼史』を、1345年に『宋史』を完成させた。短い期間で編まれたため、校訂が十分でなかったともいわれる。
1344年5月、父のマジャルタイが恵宗によって甘粛に追放されると、トクトも辞職して父に従った。たまたま黄河が大きく氾濫したが、政変の直後で朝廷の対策は遅れた。1347年に父が没したのち冤罪が明らかになり、1349年にトクトは呼び戻されて中書左丞相となった。恵宗は「人にはトクトあり、馬にはフランクの馬あり」と述べたとされる。1350年に右丞相に復して政権を授かり、新しい紙幣の至正交鈔を発行し、賈魯に黄河の大改修を命じるなど、民心の回復をはかった。1351年には民夫15万人と兵2万人を動員して、黄河を南の流れに戻す工事に着手した。江南と北の都の大都を結ぶ大運河を復旧させる狙いであったという。タルカンの称号を賜り、「賢相」と讃えられた。
しかし大規模な土木工事は、恩恵を受けない江南の民衆の不満を呼んだ。白蓮教主の韓山童はこの不満をあおり、紅巾の乱のきっかけをつくった。韓山童は捕らえられて殺されたが、以後も各地で蜂起が相次いだ。1351年8月に芝麻李らが徐州を奪って王を自称すると、トクトは1352年9月に十数万の兵を率いて徐州を攻め、芝麻李を戦死させた。この功により太師に封じられた。1354年には再び鎮圧に向かい、高郵の張士誠を討伐していた。ところがトクトに不満を持つ皇太子アユルシリダラと奇皇后に、恵宗の寵臣が讒言し、トクトは弾劾を受けて追放された。
身柄は淮安に移され、のち雲南へ流刑となった。護送の途中、ハマが「自害せよ」という恵宗の偽の詔を発したため、トクトはみずから毒酒をあおった。1356年1月10日に没した。トクトを失った討伐軍は崩壊し、朝廷も収拾がつかなくなった。7年後の1362年にハマらが処刑されると、トクトの名誉は回復された。息子にはカラジャンとサンバオヌがおり、カラジャンは北元の時代に重臣として活躍したと各種の記録にある。
同じ年に亡くなった人物
- タージュ・ウッディーン・ハサン・ブズルグ (1356年没)
- Walter VI of Brienne (1356年)
- マルガレーテ・フォン・ホラント (1356年没)
- ピエール1世 (ブルボン公) (1356年没)
- ジョヴァンニ・グラデニーゴ (1356年)
同じ地域に関係する人物
- エルネスト・ドラード・ド・ラグレ (1868年没)
- ジョージ・フォレスト (植物学者) (1932年没)
- 聞一多 (1946年没)
- 永暦帝 (1662年没)