伝記
コーラ・ディ・リエンツォは、1313年に生まれた中世ローマの政治家である。本名はニコラ・ディ・ロレンツォ・ガブリーニといい、父の名ロレンツォが縮まって「リエンツォ」、自身の名が縮まって「コーラ」となったため、この名で知られる。ローマのトラステヴェレに生まれ、父は宿屋の経営者、母は洗濯女という貧しい出自だった。自らは皇帝ハインリヒ7世の私生児だと称していた。
若いころはアナーニで過ごし、ラテン語の著作家、歴史家、弁論家、詩人の作品を熱心に読んだ。古代ローマの栄光と権勢の物語に心を養ううちに、荒れ果てた故郷を昔の偉大さに戻すことを考えるようになった。兄が貴族に殺されたため、その復讐を望む気持ちもこの志を後押ししたという。若くして公証人となり、弁説に巧みで、古代を熱心に賛美し、貴族を批判する演説を行った。
当時の教皇庁はアヴィニョンにあり、ローマは荒廃していた。1343年、コーラはローマ市民の使節団に加わってアヴィニョンを訪れ、教皇庁に仕えていた人文主義者ペトラルカに会って、古代ローマの栄光を熱く語り、感激させた。貴族の支配者たちを大胆に非難しながらも、教皇クレメンス6世の好意と尊敬を得て、教皇庁での役職を与えられた。教皇は1350年にローマで第2の聖年を行うとの教書を発した。1344年4月にローマへ帰ると、コーラは3年にわたり、ローマ復興という生涯の目的のために支持者を集めて計画を練った。
1347年5月、コーラは議会を招集し、20日の聖霊降臨祭に、甲冑をまとい教皇代理を従えて行列の先頭に立ち、カピトリーノの丘で数千の群衆の前に貴族を標的にした改革綱領を発表した。新しい法が公布されて喝采で迎えられ、無制限の権限が与えられた。貴族たちは戦わずして市を去るか身を隠した。コーラは自らに神聖ローマ共和国解放者という称号を授け、のちに護民官と自称した。軍隊を指揮し、税制改革を行い、貴族でも容赦なく裁判にかけた。7月には、ローマ人民が帝国に対して主権を持つと宣言し、8月1日にはイタリア諸都市の代表を集めて連合を協議した。しかし実際の成果はなく、8月15日には盛大な式典で護民官として戴冠した。やがて誇大妄想的な言行が多くなり、皇帝のように振る舞い、自らを「聖母の息子」にたとえることもあった。ステファノ・コロンナをはじめとする貴族たちと対立し、貴族たちはコーラ打倒の軍勢を集めた。教皇の使節はコーラに引退を命じ、拒否するなら聖年祭を取りやめるとした。教皇の支持を失ったコーラは、12月にローマを離れた。
アブルッツィの山中の修道院に2年間身を隠した後、1350年にプラハのボヘミア王カレル、のちの皇帝カール4世を頼った。1352年にはアヴィニョンに向かい、教皇庁に監禁された。この間、ローマではバロンチェッリという扇動家が、コーラの意思を継ぐと称して政権を握り、貴族階級を追放した。教皇インノケンティウス6世は事態を収めるためコーラをローマに送ることを決め、1354年8月、ローマに着いたコーラはバロンチェッリを追放して、元老院議員、執政として再び政権の座に着いた。しかし気に食わない者を次々と処刑したため市民の不満は高まり、復帰して数か月で反乱が起こった。10月、「裏切り者に死を」と叫ぶ群衆に取り囲まれ、変装して逃げようとしたが捕らえられ、かつての部下に刺殺された。滅多斬りにされた死体は、コロンナ家の地区に2日間さらされた。没日は10月4日とも8日ともいわれる。コーラの生涯は、リヒャルト・ワーグナーのオペラ『リエンツィ』(1842年)を通じても知られる。
同じ年に亡くなった人物
- Vladislaus of Bosnia (1354年没)
- アンドレア・ダンドロ (1354年没)
- ユースフ1世 (ナスル朝) (1354年没)
- マリー・ダヴェーヌ (1354年没)
- ジョヴァンニ・ヴィスコンティ (ミラノ大司教) (1354年没)
同じ地域に関係する人物
- プブリウス・フリウス・ピルス (紀元前213年没)
- ロマーノ・ムッソリーニ (2006年没)
- キエフのイシドール (1463年没)
- Paolo Dezza (1999年没)
- シンマクス (ローマ教皇) (514年没)