伝記
ルース・ベネディクトは、旧姓をフルトンといい、1887年6月5日にニューヨークで生まれたアメリカ合衆国の文化人類学者である。母ベアトリスは教師、父フレデリックはホメオパシーの医師で外科医でもあった。父は1888年に手術の際に原因不明の病をうつされ、翌年、治療を求めて訪れたトリニダードから戻って十日後に亡くなった。一家は母方の祖父母の農場があるニューヨーク州ノーウィッチへ移った。母は夫の死を深く嘆き続け、ルースは母の嘆きを弱さと見なして反発したと回想している。幼い頃にかかった麻疹のために耳が少し不自由になり、それは学校に通い始めるまで気づかれなかったという。七歳で短い詩を書き始め、手当たり次第に本を読む少女だった。
妹とともに奨学金を得て女子の進学準備校に学び、1905年9月、名門女子大学のヴァッサー大学に入った。英文学を専攻し、同級生から「知的な急進派」と呼ばれることもあった。1909年に卒業すると、大学の裕福な理事の誘いで、見知らぬ二人の女性とともに一年間ヨーロッパ各地を旅した。帰国後はしばらく職を転々とし、慈善組織協会で社会事業に就いたほか、ロサンゼルスの女学校でも教えた。のちに『ベネディクト液』に名を残す化学者スタンレー・ロシター・ベネディクトと結婚したが、後に離婚している。1930年代の初めまでは、アン・シングルトンの筆名で詩も発表していた。
人類学との出会いはニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチの講義だった。その後コロンビア大学大学院でフランツ・ボアズに師事し、博士の学位を得て大学の教員に加わった。ニュースクールでは、エルシー・クルーズ・パーソンズのもとで人類学を学んだともされる。アメリカ人類学会の会長やアメリカ民俗学会の有力会員も務め、学術的な専門職で指導的な存在として認められた最初の女性と評されている。教え子のマーガレット・ミードとは、恋愛とも姉妹愛ともいわれる親密な関係にあった。1934年の主著『文化の型』は、あらゆる人間社会に現れる行動様式の形成過程を描き、文化相対主義を示した。専門書でありながら、戦前のアメリカで最も広く読まれた文化人類学の著作になった。執筆の間には、言語学者エドワード・サピアや精神科医ハリー・スタック・サリヴァン、シカゴ学派の人々とも交流が深かったという。
1936年にコロンビア大学の助教授となり、アメリカが第二次世界大戦に加わると、軍の戦争情報局に招かれた。米軍は人種に動機づけられた行動が軍事的な効率と関わることに関心を持っていたといわれ、彼女は軍のために人種的偏見を学問的に解説する著作も発表した。1940年の『人種主義』や1942年の『人種と人種主義』、1943年にジーン・ウェルトフィッシュと著した小冊子『人類の諸人種』などがそれにあたる。こうした活動を通じて、人種主義を意味するレイシズムという語を世に定着させた人物とされる。1942年からは対日戦争と占領政策の意思決定にかかわる日本班のチーフを務め、そこでまとめた報告書『日本人の行動パターン』を土台に、戦後の1946年、日本文化を論じた代表作『菊と刀』を出版した。
戦後もユネスコの設立に関わるなど活動を続け、1948年にコロンビア大学の正教授に任じられた。しかしその二か月後の9月17日、ニューヨークで急死した。
同じ年に亡くなった人物
- プラヤー・マノーパコーンニティターダー (1948年没)
- ハリー・ホワイト (1948年没)
- アキーレ・ヴァルツィ (1948年没)
- Princess Sophia Kaur of Lahore (1948年没)
- トーマス・モフォロ (1948年没)
同じ地域に関係する人物
- アナ・メンディエタ (1985年没)
- アラン・J・パクラ (1998年没)
- トマス・コール (1848年没)
- チャールズ・アイヴズ (1954年没)
- カレン・ホーナイ (1952年没)