伝記
オッカムのウィリアムは、1285年にイングランドのオッカム村に生まれ、1347年に没したフランシスコ会士である。後期スコラ学を代表する神学者・哲学者で、哲学や科学における節約の原理「オッカムの剃刀」の提唱者として知られる。オッカムというのは姓ではなく、出身地の名で呼んだものである。
オックスフォード大学で学び、30歳を過ぎても命題集講師の職にとどまっていた。ボナヴェントゥーラ系のフランシスコ会士として、トマス・アクィナスの継承者の立場をとる学長ジョン・ラットレルと対立していたためである。フランシスコ会の会則の解釈では、いわゆる清貧派の立場をとり、普遍論争では急進的な唯名論の立場に立った。1323年、ラットレルから異端だとして、当時アヴィニョンにあった教皇庁に訴えられた。教皇ヨハネス22世とも対立し、1324年には異端審問のためアヴィニョンへ召還され、1326年、教皇は彼の学説を異端とし、破門を宣告した。このとき、マイスター・エックハルトも異端の容疑で告発されており、オッカムはエックハルトと会ったことを書き残している。
オッカムはフランシスコ会総長チェーザナのミカエルとともにアヴィニョンからミュンヘンへ逃れ、聖職叙任権などをめぐって教皇と対立していた神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世の保護を受けた。その後はミュンヘンに住み、同地でペストにより没して、市の城壁の外にあるペスト死者用の墓地に葬られたという。
信仰と理性については、神は何物にも縛られずに世界を創造したので、神の道は人間の理性には開かれておらず、人は信仰によってのみ神学的真理に到達すると考えた。哲学では、スコラ学の方法と内容の両面で改革を唱え、その狙いは簡易化にあった。ドゥンス・スコトゥスなど先行する神学者の著作の多くを統合し、神の全能性や恩寵といった概念、認識論や倫理学の意見は彼から受け継いだが、予定説や受難、普遍の理解、節約の原理などの分野では反対の意見を持った。個物を超えた普遍や本質、形相ではなく、個物のみが存在し、普遍は人間の心が個物を抽象して生み出したもので、心の外に存在するものではないと主張した。このため、形而上学的な普遍の実在を否定して存在論の縮小を唱えた唯名論の開拓者、近代的認識論の父とみなす者もいる。
「オッカムの剃刀」は、ある存在を仮定しなくても現象を説明できるなら、その存在を仮定する理由はなく、原因や要因をできるだけ少なくする説明を選ぶべきだという考えである。ラッセルは、この格言をそう解している。ただし、この有名な定式は、現存するオッカムの著作のどこにも見当たらないという。彼にとって、本当に必要な存在は神だけであり、他のすべては不確定である。そのため人間の理性は魂の不滅も神の存在や唯一性、無限性も証明できないとし、これらの真理は啓示によってのみ知られると説いた。
自然哲学ではアリストテレスの『自然学』の長い注釈書を書いた。政治理論では、教会と国家の分離を中世で初めて唱えたとされ、所有権の概念の発展にも重要である。君主が責任を負うという発想は、1332年から1348年にかけて書かれた大著で支持され、公会議主義の運動に大きな影響を与え、自由民主主義の思想の発生を助けたともされる。論理学では、のちにド・モルガンの法則と呼ばれる公式を書き残し、三つの真理値を持つ三値論理にも考察を及ぼした。これは19世紀から20世紀の数理論理学で再び取り上げられた。
同じ年に亡くなった人物
- Al-Mudhaffar Hajji (1347年没)
- ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝) (1347年没)
- Sang Nila Utama (1347年)
- マリア・デ・ナバラ (1347年没)
- ジャンヌ3世 (ブルゴーニュ女伯) (1347年没)
同じ地域に関係する人物
- ティトゥス・ブランズマ (1942年没)
- オイゲン・ヨッフム (1987年没)
- マクシミリアン・カール・フォン・トゥルン・ウント・タクシス (1871年没)
- ルイーズ・ドルレアン (1869-1952) (1952年没)
- ヴィルヘルム・ブリュックナー (1954年没)