伝記
エルンスト・ルビッチは、1892年1月28日にベルリンで生まれた映画監督・映画プロデューサーである。両親はアシュケナジムのユダヤ人で、父シムハ(ジモン)は、ベルリンで評判の紳士服店を営む仕立屋、母アンナはブランデンブルクの出身だった。ひとり息子として教育を受け、演劇にも触れて育ったが、学業に倦んで芝居に魅せられ、16歳で高校を中退した。父は息子の志を認めず、店で働かせたものの、半年でその不器用さに音を上げたという。会計係の仕事に就いたあとは、昼は働き夜は芝居に打ち込む二重生活を送った。人気喜劇俳優ヴィクトル・アルノルトに弟子入りして小道具や照明の助手も務め、1911年にはアルノルトの紹介でマックス・ラインハルトの劇団に入り、翌年にはラインハルト監督の映画にも出演した。
1913年、映画界から「典型的なユダヤ人」の容貌を買われて喜劇俳優に勧誘され、主演作『アルプス高原のマイヤー』で愉快なユダヤ人のマイヤーを演じて好評を博した。以後「マイヤー」や「モーリッツ」を主人公とする短編シリーズに多く主演した。1914年には自身主演の短編喜劇『シャボン玉嬢』で監督デビューし、1916年からは自作の監督に専念して俳優業を退いた。1918年に初の長編『呪の目』を発表し、同年のポーラ・ネグリ主演『カルメン』は欧州中で大ヒットして、ルビッチの名を国際的にした。『牡蠣の王女』には、のちに「ルビッチ・タッチ」と呼ばれる細やかな表現が散りばめられていた。1919年の史劇大作『マダム・デュバリー』は、嫌独感情の強かったアメリカでドイツ映画であることを伏せて公開され、成功を収めた。
1922年、ハリウッドの大スターだったメアリー・ピックフォードに招かれて渡米し、1923年に彼女の主演作『ロジタ』を監督した。ワーナー・ブラザースとも契約し、『結婚哲学』や『当世女大学』を撮る中で、人物の位置や視線によって感情を描く独自の「ルビッチ・タッチ」を確立していった。1927年にメトロ・ゴールドウィン・メイヤー社へ移り、翌年パラマウント社に移籍すると、モーリス・シュヴァリエ主演のトーキー第1作『ラヴ・パレード』や『陽気な中尉さん』を監督し、『極楽特急』『生活の設計』など、洗練された台詞と巧みな物語運びのコメディやミュージカルを手がけた。1934年からはパラマウントの意向で製作も担い、翌年には製作主任に任じられた。
1935年1月28日、ナチス・ドイツがルビッチのドイツ市民権を剥奪した。ルビッチはドイツに残っていた姉たちとその家族、亡き兄の遺児をアメリカへ呼び寄せ、1936年にはアメリカの市民権を得た。1937年にフランス政府からレジオンドヌール勲章を授けられ、1939年にはグレタ・ガルボ主演の『ニノチカ』を製作・監督した。ナチス占領下のポーランドからの脱出を計画する芸人たちを、深刻にではなくあくまでルビッチ流に描いた1942年の『生きるべきか死ぬべきか』も代表作である。1944年頃から心臓疾患を抱えて休業し、1946年に『小間使』で復帰した。1947年には「映画芸術への貢献」によりアカデミー賞特別賞を受けたが、同年11月30日、ミュージカル『あのアーミン毛皮の貴婦人』の準備中に心臓発作で倒れ、世を去った。その作風はビリー・ワイルダーや小津安二郎らに影響を与え、1958年にはワイルダーらによってエルンスト・ルビッチ賞が創設された。
同じ年に亡くなった人物
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- ヴィクター・ブルワー=リットン (1947年没)
- スミス・ウィグルスワース (1947年没)
- エレン・ウィルキンソン (1947年没)
- ヘンリー・コルカー (1947年没)
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- ベニー・カーター (2003年没)
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- コニャーズ・ヘリング (2009年没)
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