伝記
シャルル=フェルディナン・ラミュは、1878年9月24日にスイスのローザンヌで生まれた小説家・詩人である。父エミールは食料品とワインを商う商人で、母ルイーズはアブラハム・ダヴェル少佐の子孫とされる。三番目の子だったが、先に生まれた二人の兄が幼くして亡くなっており、シャルルとフェルディナンというその名は兄たちの名を受け継いだものだった。本人は「大公のような名」を好まず、C・F・ラミュと略して名乗った。のちに一家は父の健康悪化のため郊外のシェゾー=シュル=ローザンヌの農場に移り、少年は寄宿先で同年代の友人と親しくなった。1896年にカールスルーエを旅した際に最初の詩を書き、作家になる決意を固めたといい、母もその志を後押ししたとされる。
ローザンヌ大学で学び、1900年に学位を取得すると、同じ年の冬にパリへ向かった。表向きはモーリス・ド・ゲランに関する博士論文を書くためだったが、論文はほとんど進まず、文学仲間と交わり、絵画を見て過ごした。初めのうちパリでの生活は苦しく孤独だったが、フランス古典文学に触れる中で、リズムや抑揚に特徴のあるヴォー州のフランス語との関係に気づいていったという。1903年に自費で詩集『小さな村』を出し、1905年に小説『アリーヌ』を発表して、作家としての歩みを始めた。1913年にセシル・セリエと結婚し、1914年にパリを離れてからは、生涯をヴォー州で過ごした。
第一次世界大戦中の1915年9月、指揮者エルネスト・アンセルメの紹介で、スイスに滞在していた作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキーと出会った。ストラヴィンスキーは共同作業のためレマン湖北岸のモルジュに移り、1920年5月まで住んだ。ラミュはロシア民話をもとにした声楽曲の歌詞をフランス語に訳し、1918年に初演された『兵士の物語』では台本を担当した。この作品にはラミュの発案が多いと考えられており、田舎の価値観と現代的な生活の対立という主題は、ラミュにはなじみ深いものだった。この時期のことは、のちに『ストラヴィンスキーの思い出』(1929年)に記された。
1921年にアルベール・チボーデが『ジャン=リュックの受難』を高く評価したことをきっかけに、フランスでも注目されるようになった。1930年にロマン賞を受け、賞金でローザンヌ近郊に家を建てた。1934年の『デルボランス』をはじめ、長編小説を22作書いている。山の農民やレマン湖畔の人々の暮らしを題材にしたが、牧歌的ではなく、悪霊や奇跡、戦争に向き合う共同体の物語が多い。籠編み職人やもぐら捕り、靴直しなど、社会から疎外された人々も描いた。同じ言葉の繰り返しや独創的な比喩、実際と異なる動詞の時制、視点の変化を特徴とする文体は、フランス文学の伝統から外れるとして批判も多かったが、セリーヌやクローデルが擁護した。画家、とくにセザンヌを手本にしたともいわれる。
1940年からメルモ社で全集が刊行され、全20巻で、没後の1954年に3巻が追加された。1947年5月23日に没した。1997年以降に発行されたスイスの200フラン紙幣には、その肖像が使われていた。
同じ年に亡くなった人物
- イアン・ハミルトン (1947年没)
- 百武晴吉 (1947年没)
- フランシス・クリーブランド (1947年没)
- ブロニスラフ・フーベルマン (1947年没)
- ステパン・ペトリチェンコ (1947年没)
同じ地域に関係する人物
- ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュク (1879年没)
- Pierre Graber (2003年没)
- カール・シューリヒト (1967年没)
- フリーデリケ・フォン・バーデン (1826年没)
- グッリエルモ・フェッレーロ (1942年没)