HISTORICAL PERSON · 1947年没

カール・マンハイム

ハンガリー出身のユダヤ人社会学者で、知識社会学の提唱者。ナチス政権の成立後にイギリスへ亡命し、ロンドン大学で教えた。

生涯
1947年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / ロンドン)
出生地
ハンガリー(ブダペスト)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

カール・マンハイムは、1893年3月27日にブダペストで生まれたハンガリー出身の社会学者である。父はハンガリー人で織物商、母はドイツ人で、両親ともユダヤ系だったとされる。地元の大学で哲学と文学を学び、ベルリンではゲオルク・ジンメルに師事し、パリやハイデルベルクでも学んだ。第一次世界大戦の頃には、カール・ポラニーが創設し、マイケル・ポラニーも加わったガリレイ・サークル、オスカル・ヤーシが組織した社会科学協会など、いくつもの知的集団に加わった。1915年の秋には、ベーラ・バラージュ、ラヨシュ・フュレプ、ジェルジ・ルカーチらとともに「日曜サークル」の創設メンバーとなり、その中で最年少だった。

1919年のハンガリー・ソビエト共和国の短い期間には、友人で恩人のルカーチの後ろ盾によって、ブダペスト大学の教育学研究所で教えた。ただしルカーチが共産主義へ転向したことには同調しなかった。ホルティが摂政となると、二人は亡命を余儀なくされ、マンハイムはドイツを選んで1933年までそこで暮らした。1921年にはユリア・ラングと結婚した。ユリアは心理学者で、夫の多くの仕事に協力し、没後の著作の刊行にも力を尽くしたが、その貢献は十分に認められてこなかったという。

ハイデルベルクではアルフレート・ヴェーバーのもとで働き、1926年に教授資格が認められた。この職をめぐっては、ヴァルター・ベンヤミンなど他の候補者を抑えて選ばれたとされる。1929年にはフランクフルト大学の教授となり、ノルベルト・エリアスとハンス・ゲルトが1930年春から助手を務めた。事務面を支えたグレタ・クックホフは、1933年初めにマンハイムの渡英を準備するためロンドン・スクール・オブ・エコノミクスへ向かった。同年、ナチスが制定した反ユダヤ的な公務員追放法のもとで教授職を追われ、イギリスへ逃れた。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで社会学の講師となり、1941年にはロンドン大学教育研究所の所長フレッド・クラークに招かれて同研究所でも教え、1946年1月に同研究所の初代社会学教授に任命された。

学問上の主著は1929年の『イデオロギーとユートピア』である。マルクスがイデオロギーを支配階級の虚偽意識と捉えたのに対し、マンハイムはどんな思想も立場や時代に拘束されているという「存在被拘束性」を指摘し、知識社会学を構想した。部分的イデオロギーと全体的イデオロギーを区別し、現状を支えるイデオロギーと、未来に向けて社会の変革を唱えるユートピアも区別した。この拘束を乗り越えるには、立場に縛られず自由に浮動する知識人の視野が必要だと論じた。1935年刊で大衆社会の危険を論じた『変革期における人間と社会』は、エーリヒ・フロムらの大衆社会論に影響を与えた。イギリスではT・S・エリオットも加わったキリスト教系の討論会「ムート」で重要な役割を果たし、ルーティッジ社の国際社会学叢書の編集者としても影響力を持った。

1947年1月9日、先天的に弱かった心臓のためロンドンで没した。53歳だった。亡くなる少し前にユネスコの責任者への就任を打診されたが、受けることはできなかったという。遺体はゴルダーズ・グリーンで火葬され、遺骨は同所の納骨堂に納められて、のちに妻の遺骨と混ぜられた。

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