HISTORICAL PERSON · 1343年没

ロベルト1世 (ナポリ王)

アンジュー家のナポリ王で、賢明王と呼ばれた。教皇党の指導者と目され、アカイア公マオーの公位を剥奪して自らアカイア公を兼ね、後に弟ジョヴァンニに譲った。ダンテは「口先だけの王様」と評した。

生涯
1343年没
死亡地
イタリア共和国(ナポリ)
出生地
イタリア共和国(カゼルタ県 / サンタ・マリーア・カープア・ヴェーテレ)
出典
世界地図
イタリア共和国(カゼルタ県)

伝記

ロベルト1世は、1309年から1343年までナポリ王を務めたアンジュー家の王である。1276年とも1277年ともいわれる年に、のちのナポリ王カルロ2世の三男として生まれ、母はハンガリー王イシュトヴァーン5世の娘マーリアであった。祖父が1266年に築いたイタリアの王国は、1282年にシチリア住民の蜂起であるシチリアの晩祷で揺らぎ、アラゴン王家がシチリア側について介入して戦争は広がった。1284年に父が戦いで捕らえられてアラゴンの捕虜となり、1285年には祖父が遠征先のフォッジャで死んだ。捕虜のまま父がナポリ王位に就くと、戦況は膠着し、父は自由を得るための交渉を進めた。

ロベルトは人質としてアラゴンの宮廷に送られた。その間にカルロ2世の長男カルロ・マルテッロが王位継承者とされたが、1295年に疫病で死に、その息子のハンガリー王カーロイは継承から外された。次兄のルイが聖職に入るため相続を放棄したので、ロベルトが継承者になった。同じ年、ナポリとアラゴンはアナーニ条約を結び、アラゴン王ハイメ2世がシチリアをカルロ2世へ返すと約束した。1296年からのロベルトはカラブリア公を称し、1297年にはその条約の一部としてハイメ2世の娘ヨランダと結婚した。1298年、ロベルトは義父とともにシチリアへ大規模な侵攻を行い、自らアンジュー軍を率いたが、最初の成功のあとは泥沼となり、1299年には弟のターラント公フィリッポがシチリア側に捕らえられた。戦争は1302年のカルタベッロッタの和約で終わり、アンジュー家はシチリアを永久に失い、支配は半島南部に限られた。この1302年にヨランダは世を去り、ロベルトは1304年にマヨルカ王ハイメ2世の娘サンチャと再婚したが、子は生まれなかった。

1309年に父が死ぬと、ロベルトはナポリ王位を継いだ。亡き兄カルロ・マルテッロの息子カルロ・ロベルトも有力な継承者だったが、ハンガリー王となるのに忙しくナポリ王位に関心を示さなかったとされる。ロベルトは教皇派の代表と見られ、教皇クレメンス5世から、ロマーニャとトスカーナの教皇代理に任じられた。1311年から1313年にかけて皇帝ハインリヒ7世がイタリアに来ると、これに反対した。1313年に教皇からローマの元老院議員に指名され、1314年以降はイタリア全体の帝国代理という称号も帯びた。1317年には、アカイア公国を夫ルイ・ド・ブルゴーニュとともに得ていたマオー・ド・エノーを、ルイの死を好機としてイタリアに連れ去り、弟のグラヴィーナ伯ジョヴァンニとの再婚を求めた。マオーは拒み、貴族ユーグ・ド・ラ・パリッスとひそかに結婚していた。怒ったロベルトはマオーのアカイア公位を奪って投獄し、自らアカイア公を兼ねたが、1322年にユーグを大逆罪で処刑し、のちにジョヴァンニへアカイア公位を譲った。フィレンツェ出身のダンテ・アリギエーリは、教皇派の指導者と目されたロベルトを「口先だけの王様」と断じている。

1328年には、息子のカラブリア公カルロが死んだ。同じ年、イタリアに来た皇帝ルートヴィヒ4世と戦い、1330年にはボヘミア王ヨハンを北イタリアから退かせた。1336年にサルッツォ侯位をめぐってマンフレード5世と甥のトンマーゾ2世が争うと、トンマーゾがヴィスコンティ家と姻戚だったため、マンフレードを助けて兵を進め、都市を包囲して攻め落とし、略奪して火を放ち、トンマーゾを捕らえた。1343年1月20日、ロベルトは死去した。跡継ぎの息子に先立たれていたため、王位は孫娘のジョヴァンナ1世に遺した。

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