伝記
ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングは、1893年1月、バイエルン王国のローゼンハイムにあるサナトリウムで生まれたナチス・ドイツの政治家、軍人である。父ハインリヒは外交官で、南西アフリカの帝国弁務官を務め、のちハイチの総領事となって、生まれたころもハイチに在任していた。母フランツィスカは、出産のために夫のもとを離れて帰国し、掛かりつけの医師が経営するこのサナトリウムに入院した。ゲーリングは父の10人の子の9番目にあたる。代父となった医師ヘルマン・フォン・エーペンシュタインは、プロイセン王室の侍医で宮廷に影響力があり、母の愛人でもあった。3歳までは実の両親と離れて育てられ、1900年からは、母の愛人だった大地主の城に同居し、豪勢な生活の中で育った。1905年にカールスルーエの陸軍士官学校に入り、1909年からはプロイセン陸軍士官学校で学び、1914年1月に少尉に任官して、ミュールハウゼン駐留の歩兵連隊に配属された。
同年に第一次世界大戦が勃発すると、陸上部隊を指揮して戦ったが、まもなく病を患って戦線から離脱した。10月から偵察機の観測員となり、1915年9月から戦闘機パイロットとなって、撃墜数を伸ばし、1917年5月に指揮官に任じられた。エースパイロットの一人として知られるようになり、1918年6月にはプール・ル・メリット勲章を受け、7月には「リヒトホーフェン大隊」の指揮官に任じられた。ウーデットら腕利きぞろいの部隊をまとめ上げ、最後まで戦い抜いたが、11月に敗戦を迎えた。戦後はデンマークやスウェーデンに活躍の場を移し、曲芸飛行士として人気を博した。1921年夏に帰国し、翌年、ヒトラーの演説に魅了されてナチ党に入党すると、一次大戦の英雄の経歴から重用され、ただちに突撃隊最高指導者に任じられた。1923年のミュンヘン一揆に突撃隊を率いて参加したが、失敗し、腰に銃弾を受けてオーストリアへ亡命した。この治療で使われたモルヒネが原因で依存症になったとされる。
1927年の恩赦で帰国し、1928年に国会議員に当選して、ナチ党議員団の長となった。社交界でナチ党と上流階級の橋渡し役を務め、大企業から献金を取りつけて、党の議席を急速に伸ばした。1932年8月に国会議長に選出され、ヒトラーが首相に任命される下地作りに貢献した。1933年1月30日にヒトラー内閣が成立すると、無任所大臣として入閣し、プロイセン州内相となって、警察のナチ化を進め、ゲシュタポを創設した。同年5月に航空相、1935年3月に空軍総司令官となり、ヴェルサイユ条約で禁止された空軍の再建で中心的な役割を果たした。1936年に四カ年計画全権責任者、1937年に経済相となり、開戦に際してはヒトラーの後継者に指名された。しかし対外穏健派だったため、強硬なヒトラーとは徐々に距離ができ、1930年代の終わりごろから影響力を落とした。1940年7月に国家元帥に叙されたが、バトル・オブ・ブリテンやスターリングラードの失敗で権威を失墜させた。
1945年4月、ヒトラーが自決の意思を固めたと聞き、国家指揮権の移譲について問う電報を送ったが、ボルマンの讒言で「反逆」とされて解任、逮捕された。5月に自ら米軍の捕虜となり、ニュルンベルク裁判の最主要被告人として、ヒトラーとナチ党を雄弁に擁護し、検察と対決した。1946年9月に絞首刑の判決を受け、銃殺刑への変更を嘆願して拒否され、執行直前の10月15日に独房内で服毒自殺した。
同じ年に亡くなった人物
- ホルヘ・ウビコ (1946年没)
- ジョン・ヴェレカー (第6代ゴート子爵) (1946年没)
- ヴォイテフ・トゥカ (1946年没)
- ジョン・メイナード・ケインズ (1946年没)
- サーラシ・フェレンツ (1946年没)
同じ地域に関係する人物
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- エルトマン・アウグスト・フォン・ブランデンブルク=バイロイト (1651年没)
- ルイトポルト・フォン・バイエルン (1912年没)
- ルートヴィヒ3世 (バイエルン公) (1296年没)
- エレン・シュヴィールス (2019年没)